三英さんは文化元(1804)年に江戸へ出て加賀藩江戸詰め藩医の吉田長淑先生の許で蘭方内科を修業なさいました。
長淑先生の感化を受けたあなたはオランダ語に堪能となり、文化7(1810)年、24歳のとき『世界地誌』の翻訳をいたします。その間に同じく長淑先生の門弟だった蘭方医の高野長英殿と知り合いました。
三英さんは温厚篤実な御方ですが神経過敏、一方の長英殿は高邁磊落で大胆なお人。互いの気質はずいぶん異なっていましたが、気が合って親しくなりました。
ずっと後の事ですが、お二人が盃を交わしながら歓談する場に控えたことがあります。大柄な長英殿は小柄な三英さんを尊敬していつも背を丸めるように向き合って話していたのが印象に残ります。話の中身はむずかしくてとてもついてゆけませんでしたが、一つだけ三英さんが蘭学について論じたことが耳に残っています。
「世間は蘭学と洋学をごちゃ混ぜにしているが、この二者は厳密に区別いたさねばなるまい。蘭学といえどもその及ぼすところは医術のほかに天文、化学、兵学、地理、窮理(物事の道理・法則)にとどまる。だが洋学は政治、軍事、経済、社会、宗教、文化、教育、そのほか森羅万象あらゆる分野を細大漏らさず網にかける。これを学ばずして現状のまま打ち過ぎれば、わが国の前途はいやがうえにも危うくなろう」
長英殿もしきりに相槌を打っておられました。
文政4(1821)年、35歳の春を迎えたあなたは故郷の鶴岡へ帰りました。地元で医院を開いたのですが、少しも流行りませんでした。足が悪くて往診ができないうえに、そもそも患者を診る気がなく、口数も少なくて患者たちも馴染まなかったと聞いています。それでも貧乏暮らしに頓着せず、泰然自若としてただ酒を愛し蘭書を読みふけり、内外の事件や世の中の動きを備忘録に克明に記録する毎日でした。金銭を蓄えようとする気など毛頭なく、全て書物と酒に費やして平然としていました。
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