中学生の時だったと思うが、国語の時間に「本質と形式」をテーマにした授業を受けたことがある。当時の授業の内容はまったく覚えていないが、物事が存在するときに、外から見てわかる姿や形、あるいは物事を行うときのやり方や手続きを意味する「形式」と、外からは見えないものの物事の本来の性質・要素を意味する「本質」の2つがあり、この対比が何故か中学生の頭にしっかりと残っている。さらに、福澤諭吉の「文明論之概略」で「議論の本位を定めざれば、その利害得失を談ずべからず。(中略)利害得失を論ずるは易しといえども、軽重是非を明らかにするははなはだ難し。一身の利害を以て天下の事を是非すべからず、一年の便不便を論じて百歳の謀を誤るべからず」を見てからは、この考えが自分自身の人生哲学そのものになったような気がする。
さて、現在、我々が関心を抱いていることに日本学術会議(以下、日学)の会員候補6人が任命されなかった問題がある。これまでに、我々をはじめ多くの学術団体からこの事態を憂慮する声明が出されている。一方、政権側からは、日学には以前より問題があり、改革が必要などと意見が出されている。しかし、これらの批判の多くは日学の存在の「形式」についてであり、存在の「本質」についての議論は見当たらない。
そもそも、日学の存在意義は、先の大戦の反省から出たもので、「日本学術会議の発足にあたっての科学者としての決意表明」(1949.1.22)によると、「これまでわが国の科学者がとりきたった態度について強く反省し、今後は、科学が文化国家ないし平和国家の基礎であるという確信の下に、わが国の平和的復興と人類の福祉増進のために貢献せんことを誓うものである」となっている。また、日学法第3条では、日学は独立して科学に関する重要事項等を審議することになっている。もし、形式的な課題があるにしても、まず、今起きている問題の「本質」は何かを見きわめなければならない。
わが国では、なぜか物事の「本質」を見きわめることが社会から徐々に消えているように思える。さらに、そのことに国民は気が付かなくなっている。改めて、「形式」にとらわれず、常に「本質」を求める国になりたいものである。