週刊新潮のグラビア(其の366参照)の後、新聞の取材が2つ続いた。産経新聞夕刊の「一聞百見」では、第三面の半分ほどを占めるカラー写真付きの記事が3日連続でびっくり。その翌日には読売の夕刊で、趣味の義太夫語りについて。これで一段落と思っていたら、在阪ラジオ局からの出演依頼が。こういうのは重なりがちなものである。
時々、名物教授で、と紹介されることがある。う~ん、定義にもよるが、それはいささかおこがましいような気がする。ただ、学生にとっては、ちょっと不思議な教授なのかもしれない。というのは、講義アンケートに、え~っ、そんなことを思われてるのか、というのが結構あるからだ。
ある日のZoom講義のこと、ふと窓から外を眺めるとすごくきれいな雲が出ていた。こんな空はめったにないから、ぜひ見ておきなさいねと言って講義を終えた。その日のアンケートには、大人になっても空を見て綺麗とかいう人がいるのですね、といった内容のが3つもあった。あかんのかよ。
不可解なステレオタイプ的解釈もある。先生は学生のころから真面目に勉強しておられたと思うのですが、どうしてそんなに面白いのですか、というもの。これも3人からあった。は? 真面目と面白いは独立事象であろうに。周囲にいる真面目な学生には面白くない子が多い、あるいは、教授に面白くない人が多いせいだろうか。
もうひとつは、5~6人が書いてきたことで、大学に入ってから、勉強の内容以外、自分自身の考え方などを話す先生が初めてだったのでとても新鮮な講義でした、というものである。ほ、ホンマですか?
何人もの学生が書いているのだろうからそうなんだろう。これには心底驚いた。いまの大学の講義って、そんなことになってるのか。って、大学におってそんなこと言うてたらあかんやろと思われるかもしらんが、知らなかったのだから仕方がない。
そんな講義、つまらんに決まってるわな。勉強の内容も雑談レベルの面白さでやってくださいという要望が毎年多数寄せられるが、そんなことは絶対に無理なんやし。
大学で何を身につけさせるか。教える方がまったく勘違いしているのではないか。講義内容の知識なんか、勉強する気になれば、ひとりで学べるではないか。考え方や生き方のヒントこそを与えるべきだろうに。
なかののつぶやき
「年月を経て、講義で得た知識はすっかり忘れてしまったけれど、雑談で聞いた本質的なことはしっかりと覚えています。自分としては、学生時代にこんな講義が聞けてたら、きっと楽しかったに違いない。将来的に役にたったはず。という講義をしているつもりです。学問内容しか教えないのなら、教科書だけで十分ですわ」