私は今から30年以上前、熊本大学医学部卒業後、附属病院第一内科に入局した。当時は、ナンバー内科に入局すると内科学全般を広く浅くトレーニングできたので、学生には比較的人気があり、第一内科への同級生の入局者は20名近くもいた。
私の研修医としての最初の患者は多発性骨髄腫であった。当時の血液系の腫瘍の啓発および治療は今より未成熟で、手遅れの状態で入院してくる患者も多く、入院イコール死を意味するケースも少なくなかった。50歳代のWさんという女性患者も、入院した時点でかなり進行しており、申し訳程度の化学療法しか行う余地がない状態で、半年ほどの闘病の後、帰らぬ人となった。
当時、私の所属した内科では、教育的な意味もあり、積極的に剖検のお願いをしており、同意してくれる家族も多かった。Wさんは寡黙な患者で、私たちの治療に特に疑問を持つ風もなく、「先生、きつかです」という言葉を残して消え入るように旅立って行った。彼女はきっと許してくれそうな気がしたので、夫に解剖の交渉をしてみたところ、「先生の勉強になるのなら」と同意してくれた。
残り498文字あります
会員登録頂くことで利用範囲が広がります。 » 会員登録する