『新聞集成夏目漱石像』は、平野清介が1896(明治29)~1922(大正11)年の新聞紙上に掲載された、夏目漱石に関する記事を集めた執念の力作である。そこには、漱石に関する同時代の証言が数多く収録されているが、特に1916(大正5)年12月9日に漱石が亡くなった直後の新聞記事には、漱石の死後に行われた脳の解剖記録や、解剖の執刀医である病理学者の長與又郎による漱石「追跡狂」説が掲載されている。それはおそらく、漱石の狂気が公にされた最も初期の記録と思われるが、精神科医を中心にした従来の病跡学の歴史では、いささか等閑視されてきた資料でもある。そこで、本論では、『新聞集成夏目漱石像2巻』1)ならびに『新聞集成夏目漱石像4巻』2)に収録されている漱石の解剖に関わる新聞記事を紹介するとともに、病跡学的な検討を加える。
漱石の解剖記録が最初に掲載されたのは、1916年12月11日、すなわち、漱石が亡くなった2日後で、この日は、東京朝日新聞、大阪朝日新聞、都新聞、報知新聞の4紙が漱石の解剖を伝える記事を掲載している。このうち、内容が最も詳細な東京朝日新聞の記事は、「解剖台上の文豪」という見出しと「漱石氏と桂公との脳の比較、昨日医科大学にて解剖に附す」という小見出しのもとに、次のような一文で始まっている。「故夏目漱石氏生前の希望により氏の遺骸は10日午後1時40分から医科大学病理解剖室で長與博士執刀の下に解剖に附された」。
また、漱石の解剖には、漱石の最後の主治医である真鍋嘉一郎や、夏目家の家庭医である尼子四郎などの医師も立ち会ったことが記されるとともに、執刀医である長與の見解を、「一世の大政治家たりし故桂公の遺骸解剖の際にも自ら執刀せるが文芸家たる夏目氏の脳と桂公のそれとを比較し『公の脳は大きかったが回転に於て漱石氏の方が細である』と語った」と伝えている。
さらに、漱石の松山時代の教え子でもあった真鍋嘉一郎による解説も記されているが、その中の脳に関わる部分は、概略次のような内容である。
①本解剖において最も貴重な材料は脳である。
②日本人の脳の重さは平均1350g内外だが、漱石の脳は1425gで、平均より約75g重かった。
③大脳表面の形状は異観を呈していて、右側の前頭部の脳の皺(回転)が細かいことは常人の脳にはみられないところである。
④執刀医の長與博士も、これほど「優型の脳」は初めてみる、前頭部の回転の細かなことは漱石の「連想作用」が発達していたことを証明するものであるという見解だった。
⑤漱石が生前、種々の優れた創作を著したのもこの脳の中枢の優れた作用にほかならず、漱石の脳において「天才的脳髄の型」を実見することができたのは、解剖に立ち会った者が等しく感謝するところである。
これらの記述を見ると、当時は、脳の重量や形態学的な特徴と脳の機能の関係が重視されていたことがわかる。特に、前頭部の皺の多さが連想作用の発達を示すものとして、優れた創作能力と関連づけて考えられるなど、漱石が当時から既に天才として遇されていたことを示す内容である。
そのほかの新聞は、大阪朝日新聞は解剖が行われたという事実を伝えただけであるし、都新聞は解剖実施の事実に漱石の脳の重量を加えたもの、報知新聞は真鍋談話に基づいて漱石の脳の所見に関する事実を伝えたもので、いずれも東京朝日新聞以上の情報を伝えるものではない。漱石の解剖を伝える初日の記事としては、東京朝日新聞が断然、他をリードしているが、これは、漱石が東京朝日新聞の社員として亡くなったことを思えば、当然であろう。
なお、この日の記事では、東京朝日、大阪朝日、報知の3紙とも、解剖が漱石の「生前の希望」によってなされたと記している。
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