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北 杜夫の『白きたおやかな峰』─続・文学にみる医師像[エッセイ]

No.5104 (2022年02月19日発行) P.64

高橋正雄 (筑波大学名誉教授)

登録日: 2022-02-20

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1966(昭和41)年に北 杜夫が発表した『白きたおやかな峰』(新潮社刊)は、その前年に北が医師としてヒマラヤ遠征隊に参加した時の体験に基づく作品であるため、そこには北自身を思わせる登山隊の医師の記述が、数多く見られる。


この遠征隊に随行した医師の柴崎は、山岳会の会員ではなく、山男ですらなかった。実は、この遠征隊では、山に登れて外科医で、しかも2カ月近くの余暇をとれるような医者が、どうしても見つからなかったのである。

しかし、医師は欠かせない存在だった。山での事故や発病はもとより、政治的な理由からも医師は必要だったのである。というのも、「遠征隊は医者などいない山麓の地で原住民を治療するのが習慣であり義務でもある」からで、医師が登録されていない隊には、遠征許可が下りにくいという事情もあった。

そのような状況の中、いよいよ切羽つまった隊長が、松本高校の後輩である柴崎を口説き落としたのである。柴崎なら開業医ではないから時間もつくれるだろうし、松高時代、日本アルプスに登った経験もある。しかし、隊員たちはこの決定に首を傾げた。「第一に柴崎の専門は精神科で、なお悪いことに、彼は医者は副業で小説を書くのが本業」というではないか。隊員たちは、「まあ山で発狂したときだけは頼りになるな。その代り下手なことをすればみんな書かれるぞ」と噂した。

飛行機でギルギットに到着した遠征隊は、それから先は、ひどい悪路をジープでディラン山麓にあるミナピン村へ向かった。素人の柴崎は、「今度の遠征に参加することを、かなり無造作に考えてきた」が、ギルギットまでの飛行で呆然となるような山群を見、今またジープに乗ってどぎつい岩の集積を見ていると、「いささか怕くなってきた」。

ミナピン村に着いた翌朝は、早朝から診察を求める村人が、大挙して押しかけた。この地方に医師はいないため、医師が到着したという噂は一晩で近隣の集落に伝わり、7、80名の病人が集まったのである。

しかし、「彼をいっせいに取り囲んだ、子供を抱いたり手をひいたりしている受診者の大群を見ると、まともな診療はできっこないことが一目でわかった」。これでは「とても一々聴診などしていられない」し、医師と患者の会話も、間に2人の通訳を通しての会話になる。

病気は血便患者が最も多く、眼病も多かったが、目薬は薬品箱にいくらもなかった。そのため、1人の患者に目薬を2、3滴さすだけにしたが、目脂をたらした男が、「自分の娘がやはり眼病だ、自分の村は山を越えてずっと遠くにある、ぜひその薬のびんをくれ」と訴えたため、柴崎は半分薬の入った瓶を与えた。また、木から落ちて腰を打ったという少年に対しては、その腰や尻を撫でまわしながら、「骨は折れていなさそうだな。もし折れていてもぼくにはわからんよ」と言って、サロメチールを塗っただけだった。

そうしている間にも、患者の行列は益々増えて、「粗雑な急速度の診療もいっかな終りそうになかった」。午後3時を過ぎても昼食をとることができず、くたくたになった柴崎が、「もう終り。あとは明日」と宣言すると、2、30人残った患者たちは、存外簡単に諦めて散り散りになった。しかし、その後ぐったりと休んでいた柴崎のもとに、籠に入れられたサクランボとしなびたジャガイモが届けられた。診療のお礼にと、村人が持ってきたのである。そのサクランボを食べながら隊員が、「ドクター、明日はもっと稼いで下さい」と言うと、柴崎は「ぼくをあまりこき使わんでください。半病人ですよ、ぼくは」と弱々しく言った。

柴崎は、この遠征隊に参加する前から、不眠症に悩まされて、睡眠薬なしでは眠れない状態だったのである。

翌々日が、ベース・キャンプへ出発する日だった。10名の隊員にポーターを加えると200名を超す集団が登るのだが、第一パーティとして出発した柴崎はすぐにへばってしまい、「ポーターの手前、日本登山隊の体面にも関ります」との理由で休ませられ、後から来た第二パーティに収容された。

標高3300ⅿのベース・キャンプでは、到着早々雪を掘り起こしにかかるなど、慌ただしい作業が待っていたが、柴崎だけがぐったりと雪の上にしゃがみこんでいた。大好きだったウイスキーも飲めなくなった柴崎は、これも高山病症状のひとつかと思い、「みんな健康なのだ、おれだけが不健康なのだ」と呟いた。

だが、その後、この遠征隊では頭痛や発熱、歯痛、下痢など、様々な症状を訴える隊員やポーターが続出し、診療業務に追われる柴崎は「ぼくは医師免許なんか取ったことを後悔してますよ」とこぼすようになる。

いや、隊員が凍傷になった時は指の4、5本も切ってもらうと言われて第一キャンプへ向かった柴崎自身が悪寒戦慄に襲われて、ベース・キャンプへ戻るよう命ぜられたのである。その時柴崎は、「山に登れないドクターなんて、まったく役立たずだ。ぼくは甘く考えすぎていた。当然辞退すべきだった」と激するが、副隊長は「ドクターがこなかったら、ぼくらはドクターなしできてましたよ。ドクターがいてくれて、酒をのんでてくれるだけで、みんな心理的にずいぶん安心してますよ」と、大人の対応をするのだった。


結局、この小説は、ベース・キャンプに戻った柴崎が苛々とあてもなくうろつく中、悪天候をついて隊員が頂上にアタックする場面で終わるのだが、どうしても違和感を覚えるのは、こうした任務を引き受けた柴崎の意図である。転落や落石、雪崩など、命の危険と隣り合わせのヒマラヤ登山隊に、自らの健康も覚束ない精神科医が随行して何ができるのか? それは結果として隊員の命を危険にさらす人命軽視の行為ではないのか?

実際、ベース・キャンプでの柴崎は、「おれはこうして、テントに坐して、毎晩酔っぱらうことにする。隊員のことを心配しても無益だ。雪崩にやられたらそれでおしまいだし、選ばれた屈強な連中のことだからそうそうは病気もすまい」と捨て鉢ともとれる態度をとっているが、このような医師が自分たちの命を預かっていると知った隊員たちはどんな思いを抱いたであろうと、余計な心配もしたくなる。あるいは、柴崎ならぬ北は、船医体験に基づく『どくとるマンボウ航海記』の成功から事態を甘く考え、いわば2匹目の泥鰌を狙ったのかもしれないが、この遠征隊参加の後、北は医者を辞めている。

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