1939(昭和14)年から1947(昭和22)年にかけて石坂洋次郎が発表した『何処へ』(新潮社刊)は、昭和初期に東北地方の田舎町の中学に赴任した伊能琢磨なる青年教師を主人公とする物語であるが、琢磨はこの町に到着早々、才太郎という芸伎の「胃痙攣」の発作に立ち会う。
急な差し込みに襲われて「白眼を剝いて鉄のような力で暴れ出した」才太郎は、「歯をギリギリかみ合わせ、両の拳をブルブルと痙攣させて、ウォーウォーと動物に似たうめき声を発した」。そのため、彼女の体を押さえていた琢磨は、眼の上を火花が飛び出るほど強く打たれるのだが、そこへ駆けつけたのが町医者の木山医師である。
しかし、産婦人科が専門という木山医師は、「先生は風邪ひきでも肩こりでも、すぐに股ぐらを診察してやろうと言う」とか「先生とこではいつも勘定書に間違ってよけいつけて寄越す」と揶揄されるような、いかがわしいところのある医師だった。また、木山医師は、急患の呼び出しがあっても、碁盤に向かったまま、「わしはいないと言え」と言って動こうとせず、妻から「それで医者の勤めが果せますか」、「私も一等看護婦の免状をもってる以上、人道に反したことには目をつむっておられませんからねえ」と窘められるような医師でもあったが、町の人は、「あれで何十万円という大金持ですからな」と言って、木山医師が繁盛した理由に彼の顔と商売熱心を挙げて、次のような説明をした。「先ず顔のほうから言いますと、木山さんの専門は婦人科、泌尿器科、花柳病、痔など、まあ尾籠な病気は全部そうですが、木山さんだと患者たちがそういう失礼な患部を診てもらうのに少しも気兼ねや遠慮を感じない。また婦人科だと亭主たちも安心して木山さんにならやれるという訳でして、門前市をなす繁昌をみたものです」。
「髪の毛の薄い、顔のむくんだ」と形容される木山医師は、その警戒されざる容貌ゆえに、婦人科医や泌尿器科医として患者や家族に安心感を与えているのである。
また、木山医師には、「患者を顔で覚えないで、病患で覚えている」という特徴もあった。彼は患者の顔を見ても誰とはわからないが、患部を一瞥すると過去に見た記憶が甦るのだという。「これが婦人科の場合も同じでして、自分が治療してやった女たちの顔をちっとも覚えておらない。だから女たちはその後往来で木山さんに会ってもお辞儀をしないで済む訳です。それがまた大変都合がいいことで、こんな狭い町で、往来を夫婦づれで歩いたりしてる時、細君が婦人科の医者に恭々しく頭を下げたりしては、はたの手前、亭主はあまりいい気持ではありませんからな」。
もっとも、木山医師が繁盛したのは昔の話で、最近は「土地の者もだんだん頭が高くなりまして、学士だろうが博士だろうが、金を出して診てもらう以上はこっちが客だという考えで、新しい、いい医者にかかるようになりましたから、木山さんのほうはめっきりさびれてしまいました」と、凋落ぶりも指摘されている。そこには、昭和初期になると地方でも医師の数が増えて、医師を選べるようになった結果、いわば消費者意識や医師に対する要求水準が高くなり、それに伴って古い医師は淘汰されるという状況がうかがえるのだが、これと似た現象は、横溝正史の『八つ墓村』にも描かれている。
1949(昭和24)年から1951(昭和26)年にかけて横溝正史が発表した『八つ墓村』(角川書店刊)は、鳥取と岡山の県境にある山村を舞台にした小説であるが、そこには終戦直後の山村における新旧2人の医師の対立が描かれている。
『八つ墓村』では、地方の医療事情について、「どこの田舎でも同じことで、村でいちばんいばっているのは医者である。百姓たちは村長よりも小学校の校長先生よりも、医者に対して頭があがらない」、「全部ではなかろうけれど、村医者のある人々ほど尊大にかまえ、横柄をきわめるものはない。患者のよりごのみをし、夜中の往診などよほどの分限者でないと出向かない」と、地方における医師の尊大ぶりが記されている。
ところが、終戦前後から、全国の村の様子が一変した。都会で焼け出された医者が、それぞれの縁故をたどって田舎へやってきたからである。「それらの疎開医者は、新しい患者を獲得するために、都会仕込みの外交辞令とサービスを惜しげもなくふりまいた」。また、戦後になると、以前から世話になっている医者にもそう義理堅くはしていられないという風潮がみなぎり、「腰の重い医者よりも、マメに動いてくれる医者のほうをありがたがるのは無理もない」という状況になった。
こうして、終戦後は「どこの村でも、疎開医者がまたたく間に旧来の医者を圧倒してしまった」というが、『八つ墓村』でも「新居先生が疎開してきて以来、久野先生はサッパリですからな」と言われるような事態が起きていたのであり、実は八つ墓村で起きる陰惨な殺人事件の背後にも、この新旧2人の医師による「患者争奪戦」があったのである。
❖
終戦直後に刊行された石坂洋次郎の『何処へ』と横溝正史の『八つ墓村』には、昭和初期の東北地方の田舎町と、終戦直後の中国地方の山村という違いこそあれ、新旧医師の対立という構図が見て取れるのであって、それは時代の変わり目にありがちな現象と思われる。
『何処へ』の木山医師の場合は、花柳病や痔を専門にすることもあって、「病人だってわしに診てもらって仕合わせなこともあるまいて」とか「わしはここの家に碁の相手には時々招ばれるが、病人の診察には一ぺんも招ばれたことがない」と自己卑下めいたことを言っている。しかし、逆に、世間から蔑視されている病気を診る医者なればこそ、木山医師はこうした病気を抱えて秘かに悩んでいる患者を救う存在たりえたのではあるまいか?特に、患者の顔よりも患部によって患者のことを覚えているという木山医師には、その特殊技能を活かすことで、社会的な誤解や偏見のために、うかつに人に相談したり悩みを打ち明けられない病気を専門とする、医師ならではの生きがいや存在意義を見出すこともできたはずであるが、そうした自らの可能性については、木山医師本人も気づいていないようである。