株式会社日本医事新報社 株式会社日本医事新報社

CLOSE

トーマス・マンの『魔の山』─続・文学にみる医師像[エッセイ]

No.5111 (2022年04月09日発行) P.64

高橋正雄 (筑波大学名誉教授)

登録日: 2022-04-10

最終更新日: 2022-04-05

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

1924年、トーマス・マンが49歳の時に発表した『魔の山』(関 泰祐・望月市恵訳、岩波書店刊)は、スイスのダヴォスにある結核療養所を舞台にした長編小説であるが、このサナトリウムの院長は、皆から顧問官と呼ばれているベーレンスという医師である。


ベーレンスは、サナトリウム全体の心臓のような人物で、「経営の営業方面については、院長という立場から全然タッチしなくてよかったが、監査団体をもふくめた全体の組織にたいして決定的な発言権を持っていた」。ベーレンスは、サナトリウムの経営者ではなく、彼の上部と背後には目に見えない監査団体が存在しており、この株式会社は、医師の高給や大まかな経営にもかかわらず、毎年株主に高率の配当を続けていたのである。したがって、ベーレンスは、最高幹部ではあっても代理人の一人に過ぎなかったが、彼がこのサナトリウムの経営に多大な貢献をしていることは、間違いなかった。

というのも、かつては夏になるとよほどのダヴォスびいきでないと、この谷に留まる者などいなかったのに、ベーレンスは「夏のシーズン」を創案したからである。ベーレンスは、「夏の療養は冬の療養に遜色がないだけではなく、とくにききめさえあって、絶対に欠かせないものである」と主張した。そして、彼はその学説に関する宣伝を新聞に載せたため、このサナトリウムは夏も冬と同じように繁昌するようになったのである。

そんなベーレンスは西北ドイツの生まれで、元々は夫人の療養のためにこの地に来たのだった。しかし、夫人は間もなく亡くなったため、「夫人をとても愛していたベーレンスは、夫人を失った打撃に打ちのめされてしまい、しばらく憂鬱症になり、頭もおかしくなって、街上でもひとり笑い、手ぶり、一人しゃべりで人目を引いたそうであった」。

彼には、一時的ながら、独語や空笑のような症状も出現していたのである。そして、ベーレンスはそのままこの地に住みついたのだが、それは夫人の永眠の地を去るのが忍びがたいというだけでなく、彼自身も「すこし虫ばまれて」いたからであった。

ベーレンスは、「起居を監督すべき患者たちの同病者である医者として、この上に定住」することになり、それからしばらく独立で開業していた彼は、「聴診の名人、気胸の名人」として、サナトリウムに迎えられたのである。

しかし、この物語の語り手は、ベーレンス自身も病を抱えているという事情に対して、「病気にたいして自由な立場に立っていない医者、病気にわずらわされない自由な立場から病気を退治するというのではなく、自分も病気に隷属している医者―これは特殊ではあるが、例のないことではなく、たしかにいい面とわるい面とを持っている」と述べながら、次のような見解を表明する。「医者が患者の同病者であることは、たしかに歓迎すべきことであって、悩む者のみが悩む者の指導者と救済者になれるという考えは、傾聴に値いする考えである」、「しかし、一つの力に隷属している人間が、その力を精神的にほんとうに支配できるだろうか?自分も隷属している者が、他人を解放できるだろうか?」。

この物語の語り手は、「病気の陣営にぞくしている人間が、果たして健康人と同じように病人の治療、もしくは単にその保護だけにでも、興味を持てるだろうか」という疑問を呈して、「病気についてのそういう医者の精神的知識は、経験による知識によって豊富になり倫理的に強化されるよりも、むしろ、にごらされ、混乱させられるのではないだろうか」と主張するのである。

もっとも、患者の中にはベーレンスは既に治っていると考える者もいたが、従兄の見舞いにサナトリウムを訪れた主人公の青年ハンス・カストルプは、このベーレンスから、従兄と比較して、「あなたはこちらの人よりもりっぱな患者さんになれるでしょう、太鼓判をおしてもよろしいです」、「私はだれを見ても一目でわかるんですよ、その人が患者さんとしてつかいものになるかどうかが。患者さんになるのにも、天分がいりますからね」と言われる。そして、「あなたのような場合には、しばらく軽症の肺結核の場合と同じような生活をされて、体にすこし蛋白をつけるのが、もっとも賢明なやり方です」、「私たちのここでは蛋白の新陳代謝が奇妙でしてね……。全身の燃焼作用がさかんであるのに、体に蛋白がついてくれるんです」という助言もされるのだが、ほどなくハンスは、ベーレンスの診察を受けることになる。その時、「人間ではなくてただの体をまわすように青年をまわして、その背中を見つめた」ベーレンスは、ひと言もしゃべらずに打診と聴診を繰り返した後に、「左上に粗糙音があって、これはほとんどもう雑音にちかく、明らかに新鮮な患部のものです」、「あなたがあの下でいままでどおりに暮らしたら、肺葉全部が待ったなしですたこら消えてしまうでしょう」と診断したため、ハンスもサナトリウムで療養生活を送ることになるのである。

このように、ベーレンス医師は、医師としての技量は卓越していても、人間としてはどうかと思われる人物として描かれている。実際、ハンスも、ベーレンスが自分の「父親にもなりそうな人物」であると思いつつも、父親に対するような信頼感は持てずにいるのである。


一般に、トーマス・マンの小説では、医師という存在はいかがわしい人物として描かれることが多いのだが、このサナトリウムの最高権威たるベーレンスもまた問題のある人物として描かれている。特にベーレンスの場合は、患者と同じ病気を病んでいるという状況が問題視されているわけで、自ら病を抱えた医師というものを、トーマス・マンは否定的にとらえていたようである。

一般に、医師が病んだという経験は、患者の気持ちを知るという点からも肯定的にとらえられることが多いが、ベーレンスは、現に今病んでいる可能性やメンタルな問題を抱えているという状況が、医師としての態度や行動に影響すると懸念されていて、ベーレンスの話し方に「どこか異常」なものを感じたハンスは、「患者たちを一日も早く平地に帰らせ人生勤務につけるように健康にしてやろうと、心から考えているだろうか?」と、ベーレンスの精神状態や医師としての姿勢に不信を抱いているのである。

関連記事・論文

もっと見る

関連書籍

関連求人情報

もっと見る

関連物件情報

もっと見る

page top