定年退職にあたり、研究室の同窓会を開いてもらいました。3月におこなった定年記念講演の前日に予定していたのですが、新型コロナのせいでようやく6月に。
定年におきまりのパーティーやら記念誌作成は、けっこう手間がかかるし、やらないでおこうと思っていた。しかし、ありがたいことに筆頭弟子(?)2人から是非にとの申し出があった。う~ん、迷惑かけるしなぁと辞退していたのだが、いっしょにがんばった仲間が集まる最後の機会との説得をうけて、確かにそれもそうだと納得。ならばと、同窓会として開いてもらうことにした。
12年前の「研究室15周年」、5年前の「還暦パーティー」に次いで3度目だ。先の2回も、やってもらわんでもええわと言いながら開いてもらったのだが、驚くほど楽しかった。それやったら今度も最初から素直にお願いしろよ、という気がしないでもない。我ながら、やや学習効果がなさすぎか。
加えて、研究仲間の先生10人をご招待した。とりわけ親しかった先生を厳選、わざわざでもいっしょに飲みに行きたくなる人ばかりだ。研究生活40年にして10人というのは少なすぎるという気がしないでもない。どこで線引きをするかが難しいし、多ければいいというものでもないけれど、他の人はどうなんやろ。ひょっとしたら、自分の性格には難があって友達が少ないタイプなんやろうかと、気弱に考えたりする。
前半はシンポジウムで、3人の先生にご発表いただいた。こちらがすっかり忘れていたエピソードもたくさんあって、ちょっとびっくり。でも、言われてみたら思い出すもんですな。私もトリの演者として、いろんなぶっちゃけ話や、自己肯定感の割に自己評価がいかに低いかなどをお話しした。妻には、あんなことまで話してひやひやしたわと言われたけれど、あらいざらい話を吐き出して、えらくスッキリしましたわ。
いろんな事情で来られなかった人もいたけれど、シンポジウムは70名くらい、後半のパーティーは60名くらいが出席だった。写真撮影は知り合いのカメラマン、じゃなくて女性だからカメラウーマンさんにお願いした。これまでにも、娘の結婚式や、還暦パーティー、家族写真などでお世話になったのだが、ひとことで言うと上手い。
プロやからあたりまえやないかと思われるかもしれないが、決してそうでもない。これまでに、雑誌の取材なども含めてプロに写真を撮ってもらったことが何度もある。100枚も200枚も撮ったら、そりゃぁ1枚や2枚は写りのいいのがある。問題は、その頻度だ。これには驚くほどの違いがある。
ずいぶんと昔、フィルムカメラの時代、ある結婚式で偶然、肖像写真の撮影で超有名なカメラマンさんと同席になった。スナップ写真を、どう見ても安物っぽいカメラでパシャパシャと適当に撮っておられた。いや、そのように見えた。しかし、後日送っていただいたプリントを見て腰が抜けた。そこには、見たこともない、こんな顔をするんや、というような笑顔の自分が写っていた。
人物写真の名手は、ほんのゼロコンマ何秒か先の表情を予見できるにちがいない。どう考えてもそうとしか思えない。今はデジタルカメラなので連写できるし枚数も数多く撮影できるが、昔はそうではなかった。昭和の名写真家、土門拳や木村伊兵衛などの予知能力はどれほどに高かったのだろう。
こちらから見れば、それぞれが何十人分の1ということになるが、大学院時代を過ごしてくれた人たちにとっては、たった1人の指導教授である。そう思うと、きちんと指導できただろうか、満足してもらえただろうかと、なんとも心配になってくる。
それも、教えた時代によってかなりちがいがありそうだ。若いころはとにかく厳しすぎたと反省である。「アホ、そんなこともでけへんのか!」とかいうような暴言は日常茶飯だった。いまだとアカハラで退場処分を受けかねないが、当時はみんなそんなものだった(と思う)。
逆に、晩年は指導が足らなかったような気がする。ひとつには、ハラスメントがこわくて厳しく叱りにくくなったということがある。自分としては厳しく指導された経験しかないので、それ以外の指導法がいまひとつわからなかった。虐待された経験のある子どもが、大人になって自分の子どもを虐待するようなものかもしれない。
もうひとつ、年齢的な問題というのも大きかったように感じている。なにしろ、怒るのにはエネルギーがいる。歳をとるにつれて、だんだんとそういった気力がなくなったというのが正直なところだ。かといって、中間あたりの時代の指導が適切だったかというと、それもどうだろうか。
と、まぁ、いろんなことが思いをよぎるええ会になりましたわ。気分としては「老兵は死なず、消え去るのみ」ですかね。老いを自覚しているとはいえ、あんまり老兵気分ではありませんけど。