「心理的安全性」をメンバーに確保することが大切だという発言を目にすることが増えました。心理臨床の場面で古くから言われていたことが一般社会にも広まっていることを感じます。私たちは「こんなことを言ったら、叱られるかもしれない、馬鹿にされるかもしれない」という不安が強くて、発言を控えてしまうことが少なくありません。リーダーにはそういう不安を取り除き、メンバーが伸び伸びと発言できる環境を準備することが大切だという内容です。
それはまったくその通りですが、「セラピー」というプライベートな空間で特定の当事者の「癒し」を目的とした原理原則を他の場面に拡大して用いる場合には、いくつかの注釈が必要です。
取り扱いが難しくなるのは、次の2つの場合です。1つは、当事者の怒りや羨望といった否定的な感情が優位になっている場合です。そのような感情であっても、それがそのまま受け止められ認められることが、人の癒しには必要です。しかし、攻撃的な感情を表出しても受け止められたことで、当事者が将来どこかでその攻撃的な言動を実際に行ってしまう危険性もあります。
もう1つは空想と現実の違いが理解されにくい場合です。個人精神療法は医者と患者の二者関係の中で行われます。その際、医者に向かって否定的な感情が向けられる場面もあります。そういうときに空想と現実をわける必要があると理解してもらえれば対応が容易です。「セラピー」という空間の中では、空想は自由に受け止めます。しかし現実的な行動では、許容される範囲に制限があることを示さねばなりません。海外の文献では、治療費をめぐる葛藤がよく描かれています。また、恋愛に関する感情が生じた場合にも同様の相談が必要です。
現実的な制約に従うことを求める直面化(コンフロンテーション)は精神療法の技法の大きな柱ですが、最近国内では議論が少ない気がします。そして、このような矛盾をどう扱うかに関しては深い知識や経験を必要としますが、その議論が等閑視されたまま、キャッチフレーズとしての「心理的安全性」ばかりが強調されることには複雑な思いを抱いています。
一般社会において「心理的安全性」を確保するためには、リーダーシップが重要です。リーダーはまず自らがオープンであることを示し、メンバーの意見を尊重し、フィードバックを積極的に求める姿勢を見せることが必要です。また、批判的な意見や否定的な感情を受け止め、それを建設的な議論につなげるスキルも求められます。たとえば、定期的な1対1のミーティングを設け、メンバーが安心して話せる場をつくることも効果的です。
このようにして、「心理的安全性」を確保しつつも現実的な行動の枠組みを示すことで、健全な職場環境をつくることができるでしょう。
堀 有伸(ほりメンタルクリニック院長)[職場環境][精神療法]