入局して4年近く過ぎた頃、村上教授が亀山正邦先生を講演者としてまねいた。その講演が素晴らしかった。亀山先生の講演内容は「あの学者はこう言った、この研究者は別の説を唱えている」などの解説を述べるものではなかった。先生は自分で研究をしていた。自らの研究結果から「私はこう結論する」というものだった。実に明快なすっきりするものだった。これだと思った。こんな医者になりたかった。
先生は東京の杉並区にある浴風会病院に勤務されており、毎日診療を続けながら、病理解剖された患者さんの脳を詳しく調べていた。主として脳梗塞や脳出血などの脳卒中を研究していた。生前の臨床所見と脳病変とを対比検討して研究を続けていた。当時はCTやMRIなどの検査手段はなく、生前に脳の中の状態を知ることは不可能だった。臨床所見と対比しながら病理学的に一つひとつ明らかにしていた。あいまいな点を証明しようとしていた。
素晴らしいと思った。これこそ臨床医がやるべき姿だと思った。僕もこういう医者でありたい。先生の論文などを調べると、その思いがますます強くなった。どうしても亀山先生のもとで脳卒中を勉強したくなった。
思い切って村上教授に願い出た。「村上内科を辞めたい。亀山先生のもとで脳卒中を勉強したい」と。辞めたい気持ちの中には、嫌な研究室から逃げ出したいと思っていたこともある。
自分の教室を辞めたいと言う若者に対して先生は怒ることなく、静かに「君の気持はわかった。が、もう少し待て。なんとかする」と諭された。
まったく知らなかったのだが、美濃部東京都知事(当時)の強い要望で、東京都が全国初の老人を対象にした急性期型の専門病院を創設することになり、その初代病院長として村上先生がほぼ内定していたのだ。その村上先生は亀山先生を高く評価しており、自分の大切な右腕として副院長に迎えるつもりだった。
そういういきさつがあって、僕は1972年春から東京都養育院附属病院(当時の名称。後の名称は東京都老人医療センター。病院長・村上元孝)に勤務することになった。今から思うと、あのとき思い切って上京したのが僕にとって一大転機だった。医者としてのその後の僕の人生を決めたと言っても過言ではない。
亀山先生のグループの神経内科で勉強を始めた。当時、神経内科の患者の大多数は脳卒中関連の疾患だった。金沢時代と違って、毎日の仕事が楽しかった。やりたいことがやれるのだから楽しくないはずがない。大学の医局員時代には強制されてやらされる仕事が多かった。毎日朝から深夜まで長い時間、大学病院と研究室にいたが、本質的な意味での勉強を十分にしていたとは言えなかったし、自由がないとも感じていた。
東京では基本的に自由だった。新設の病院で、若手医師はどのグループでどの先生について勉強するか自由だった。努力すればそれだけ認められる、怠けていれば相手にされなくなる、そんな病院だった。診療は特に問題がなければ夕方までに終わる。それ以後は自分の時間だ。自分のやりたい勉強をし、やりたい研究をした。誰からも干渉されなかった。通常、あまり遅くまで病院にはいなかった。9時か10時頃には病院を離れていた。
村上院長は新病院の発足に際して、以下の目標を示してスタッフの士気を鼓舞した。「皆が勉強する病院に、勉強できる病院になろう。それによって診療レベルを向上させて老年医学・医療の発展に貢献しよう」と。そのために、具体的には先生は病理解剖を重視した。また、老人総合研究所が併設され、立派な図書館が開設されてたくさんの専門雑誌が備えられた。
病理解剖は病気の本態を追究し研究するとともに、生前の診断が正しかったかどうか(病変がどこまで及んでいたか、どこまで影響を与えていたか。当時はCTやMRI、心臓エコーなどの検査手段がなかった)、治療は正しかったか、主病変以外に副病変を見落としていなかったのか、など臨床医にとっては審判の場に立つようなものだ。さらには生前の診療が納得されるものでなければ、病理解剖をさせてほしいと願っても遺族側は了承しないだろう。これらのことが臨床医にはプレッシャーとなって、毎日の診療レベルが高くなることが期待される。
病理解剖による反省と研究が、この病院の大きな柱であり使命であり続けた。毎月2回、それぞれ2例ずつ臨床病理検討会で詳しく検討された。これによって多くの医師が自分の専門以外の分野でも広く勉強したし、僕自身もその1人だった。また、この病理解剖の継続は世界に誇るべき実績であり続けた。おそらく大学病院を含めて全国的にみても、これほど病理解剖を重視して勉強を続けた施設はないであろう。
病院全体の診療体制を簡単に述べたい。当時はまだ全国的には臓器別の診療体制が確立していなかったが、循環器科、消化器科、呼吸器科、内分泌科、感染症科、神経内科などの臓器別診療科がいち早く独立して入院診療、外来診療を始めた。
内科系の専門診療科に対しては病院長、そして副院長が週に1回交替で回診した。その回診は形式的な管理的な回診ではなくて、診療そのものへの実質的な回診だった。ことに内科教授だった病院長の回診時における指導は貴重なものだった。僕自身は大学の医局員時代から同じ人の回診だったが、僕以外の医師にとっては新鮮かつきわめて有用なアドバイスだったと思われる。
神経内科では上記の総回診のほかに部長(あるいは医長)が毎週定期的に、そして新入院患者に対しては別に回診し、皆が参加した。1人の患者に対して1人の医師だけで対応するのではなく、お互いにチェックしあい、チームとして診療する体制だった。これはほかの診療科も同じだったと思う。また、毎週、難しい症例の臨床検討会を行うとともに専門の洋雑誌の輪読会を続けていた。
神経内科グループにおける脳の病変に関する研究は亀山先生が行う、いわゆるbrain cutting(剖検脳の切り出し)を基盤に顕微鏡検査のための組織標本をつくって続けられた。基本的には、いろんな疾患や生前の臨床所見と脳の病変とを対比検討するものだ。当時は老年者の神経系疾患に関してはわからないことや未解決の問題が多くて、詳しく調べればそれだけで新しい知見になることが少なくなかった。
医者仲間にも恵まれた。指導者としては、亀山先生のほかに萬年 徹神経内科医長(後に東大神経内科教授)、朝長正徳神経病理室長(後に東大脳研究所神経病理教授。亀山先生が京都大学の教授に赴任後は朝長先生がbrain cuttingを担当した)がいて、若手では井上聖啓医師(後に慈恵会医科大学神経内科教授)、そして僕を含めて全国から7、8人の若手医師が集まった。萬年先生が東大に戻られた後任には、東儀英夫医長(後に岩手医科大学神経内科教授)、東儀先生の後任には葛原茂樹医長(後に三重大学神経内科教授)が赴任した。
こうした人たちの実際の診療を見たり教わったりしながら勉強し、研究面でも一緒に仕事ができたのだから毎日が楽しかった。好きなことをやるときにはつらくないものだ。こんな医者生活を望んでいたのだ。