僕は神経内科の領域のうち脳梗塞を主に診療し(脳出血は脳外科が対応)、研究面でも脳梗塞を中心に調べた。それ以外にはパーキンソン病と認知症を診療し、これらの疾患についても調べた。この三十数年間に診療面で、あるいは研究面でどんなことをやってきたか、それを述べるのがこの小文の目的ではない。ただ、1976年、「脳梗塞の発症要因に関する研究─血液ヘマトクリット値の問題と播種性血管内凝固症候群における脳梗塞」の論文(筆頭著者)でベルツ賞を受賞(2等賞)したときはうれしかった。この病院に移って4年過ぎたときだった。
脳血管障害を含めて、老年者の神経内科系疾患の専門家になろうと勉強を続けてきた。ただ、毎日の診療だけで満足し、研究的な仕事にまったく手を染めようとしない医者であるのは嫌だった。まだ解明されていない事項や問題点を見つけたらそれを追究するべく調べようとする医者になりたかった。診療だけでなく、実際にやれる範囲で研究的な仕事もしたかった。これは僕だけではなく、多くの臨床医が同じように思っているのではなかろうか。東京都老人医療センターでは、それを行うことができた。それをすることが推奨される病院だった。
最初は若手医師として、次いで中堅医師として実績を積み、やがて医長、部長となり、今度は指導する立場になった。最後は副院長として管理的な立場としてやってきたが、基本的には上記の仕事内容を続けてきた。副院長になってからは、赤字を減らせとの本庁からの経営的な重圧を感じたが、管理職になった以上、これは仕方がない。
50歳を過ぎて、僕も医学部の内科系教授になりたいと思った。周りの先輩や同僚が次々に教授に選ばれるのを見ていたせいもある。僕も国立大学の教授選考に2回応募したが、いずれも落選した。後で思うと、やはり実力不足だった。僕の専門分野は脳梗塞や認知症、パーキンソン病などの老年者の神経系疾患に絞られており、若年者を含めた神経内科全般に関する幅広い知識も経験も不足している。
この33年間、後で振り返ると反省すべきことがいくつかある。いちばん反省すべきことは、総説(解説)論文を書くことに時間を使いすぎたことだ。学会で発表し、原著論文を書いてしだいに名前が知られてくると、医学関係の雑誌社から次々に総説論文の原稿依頼が来る。自分が認められたようで悪い気はしないから、ほとんど断らずに引き受けた。
総説を書くには、その時点における世界の現状や学問上の問題点などを確認する必要がある。僕は普段から世界の主な関係論文のすべてをきちんと分類・整理していたわけではなかった。だから、関係論文を読み直して概念を整理し、まとめるという点では勉強になった。しかし、総説を書くということはそれ以上のものではない。
思い切って総説の原稿依頼を断るべきだった。すべてを、とまでは言わないにしても、総説原稿を書くために使った時間の多くを別に使うべきだった。その時間で今やっている自分の研究をもっと深く掘り下げて追究するべきだった。さらには、ほかのテーマにも目を向けるべきだった。今から思うと、探せば追究するべき研究テーマや対象は他にいくつもあった。現状に満足してはいけなかった。
2005年春64歳のときに、東京都老人医療センターを辞職し、大森赤十字病院に病院長として赴任した。大森赤十字病院の6年間は老朽化した病院の全面改築という管理・運営仕事が主だったので省略する。
東京都老人医療センターを去るに際し、有志が送別会を開いてくれて100人ほど集まった。その席で、僕は一般的な挨拶はまったくせずに、「30年間の連続剖検例から見た老年者の脳血管性障害」と題して20分ほど調査結果を報告した。60歳以上の約6000例の連続剖検例から見た脳梗塞、脳出血などの頻度やその特徴と30年間の変遷を述べるとともに、剖検率が在院日数の短縮にあたかも並行するかのように年々低下していった事実を述べた。
このような調査結果を述べたのは、1つには僕が長い間関係してきた脳血管障害について、30年間のまとめとその経過を簡単に報告しておく義務を感じていたのと、もう1つ、若手、中堅のときだけでなく管理職的な立場になっても自分の専門分野での仕事を続けるべきだと訴えたかったからである。
当時、部長以上の上層部の医師で自分の専門分野での研究仕事を進めている人は少なく、また、病院全体としても剖検率の低下、そして学会発表や原著論文の減少が、民営化問題が生じて以降目立つようになっていた。
以上、臨床医として僕が歩いてきた道を述べた。大学の医局員時代には思うようにいかなかったが、これは次のステップへと進む前の修業期間だったと今は思っている。東京都老人医療センターの33年間は、僕が求めていた内容の医者生活を続けてきた。良き師に恵まれ、良い病院環境の中で自分のやりたかった分野で診療し、勉強し、臨床研究をしてきた。