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【識者の眼】「大災害とこれから─東日本大震災後14年に思う」黒澤 一

黒澤 一 (東北大学環境・安全推進センター教授)

登録日: 2025-03-14

最終更新日: 2025-03-14

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2011年3月11日(金)14時46分、筆者はタイにいた。チュラロンコン大学で開かれたAPRU(環太平洋大学協会)会議への参加だった。ほどほどに仕事をし、関係者との最後のランチで任務を終えようとしていた矢先、同行の大学職員がすっと寄ってきた。

「何か大変なことが起きたようです……」

巨大地震と大津波、東日本大震災だった。成田行きのフライトは即欠航となった。途方に暮れたが、なんとか空港近くのホテルに入ることができた。そして、信じられないような光景をテレビで見た。仙台空港が津波に襲われている。「僕の車も置いてきたのに……」、傍らにいた同行者の悲鳴だった。無数の車両や大量の瓦礫と一緒になって、波にのみこまれてしまっただろう。かける言葉さえ浮かばない。

携帯電話やネットで、家族や教室員の無事は確認できた。カナダのかつての留学先からのメールが来ていたので返信したら、研究所で歓声が上がったらしい。津波の被害は甚大で、沿岸部には犠牲者や負傷者が多数発生している。被災地の病院は野戦病院化し、緊迫していた。病院の混乱を報じるテレビ中継で、連絡がつかない被災地勤務の友人の姿を一瞬だけ発見し、無事を知った。停電で困る多数の在宅酸素療法患者のため、酸素濃縮器をかき集めて提供したという。

福島の原発事故も深刻に見ていた。宮城県の女川原発が同様の事態なら、仙台市が危ない。筆者の実家のある秋田県でさえ、安全の保障はない。避難先候補はカナダかと頭をよぎった。幸いそんなことは起きなかったが、紙一重だったのではないか。

3月15日(火)の朝、臨時便で羽田に戻ることができた。東京都のスーパーマーケットの食料品はほとんど空で、唖然とした。仙台市の食料品の品薄状態はさらにひどく、頼みのコンビニエンスストアは休業となっている。どこかの店の開店情報が拡散されるたび、長蛇の列ができた。まるで、ドラマで見た戦時下の状況だ。インフラは、ガスが来るまで1カ月以上かかり、煮炊きはともかく、お風呂には苦労した。何気ない普段の生活は、こんなにありがたいものかとつくづく思った。

大学は非常体制、筆者は産業医として職員の健康と安全を守るべく、後方支援として役割を果たそうとしていた。大学病院の被害は最小限で済み、被災地病院および避難所の診療支援や被災地患者の受け入れ対応など、職員が総出で奮闘した。多くの支援物資と支援隊の助けは、活動の強力な支えとなっていた。今でも関係各位には感謝しかない。

小松左京原作の『日本沈没』で、プレートの沈み込みを蒟蒻か何かを使ってシミュレートしたシーンがあった。14年前の三陸沖深さ24kmの地下の広範囲にわたって、それが現実に起きた。驚くべきことに、牡鹿半島は東南東方向に5.3mも動いたらしい。大地を動かす自然の力は桁違い。人間は勿論、たとえウルトラマンやスーパーマンが何人来ても、力づくではどうにもならない。過去の教訓をもとに、大学が震災前に講じていた種々の地道な対策は多少なりとも役に立ったと思う。避難路の確保、什器類や高圧ガスボンベの耐震固定、建物の耐震補強など、多岐にわたる。これからも、せめて、備えの神経を怠らないようにしたいと思う。

黒澤 一(東北大学環境・安全推進センター教授)[産業医][東日本大震災

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