医学はサイエンスと癒しの技としてのアートからなり、どちらが欠けても好ましくない。近年、再生医学、遺伝子治療、臓器移植、医用ロボット工学などの、サイエンスとしての医学の進歩は著しい。現在ハーバード大学では、個人の能力差が大きい聴診よりも、患者との対話を必要とせず、客観的評価が可能な超音波による身体所見の取り方の教育に重点を置いているとのことである。近未来においては、病気の診断や治療方針の決定は自動診断機器によって行われるようになるのではないかと私は予測している。コンピュータが将棋名人に勝ってしまう時代である。個々の医師の限られた能力に対し、膨大な知識を集積したコンピュータが勝るようになっても不思議ではない。
最近、実際にエリザベス・ホームズというスタンフォード大学の女子学生がTheranosという臨床検査会社を設立した。わずか1滴の血液で一般生化学から遺伝子、そして細菌やウイルスのDNAを含めて数百種類の検査項目が4時間以内に測定できる自動血液診断装置を考案・作成したとのことである。
このように、疾患の治療を目指す医学のサイエンスにおける進歩は目覚ましいが、それにもかかわらず実際に完治しうるものはごく一部にすぎない。特に、わが国のような超高齢社会においては、完治しえない慢性疾患や加齢に伴った疾患や障害が増え、サイエンスよりもむしろアートの重要性が増している。
ところが現実はどうであろうか? 臨床の現場、特に大病院においては、アートの存在意義は逆に見失われつつあるようである。米国においては医学の進歩に逆比例して、研修医のみならずスタッフ医師についても、診察やコミュニケーション能力の低下が認められ、大問題になっている。文明が発達するほど社会は非人間化すると昔から言われているが、科学としての医学が進歩するにつれて医のアート、すなわち人の心のケアの重要性が忘れられつつあるようである。
精神科医であり、かつ人類学者でもあるハーバード大学のアーサー・クラインマン教授は臨床の現場におけるケアの欠如について、次の3つのパラドックスを唱えている(「医学界新聞」第3076号、2014年5月19日)。「まず第一に、本来医療の中心であったケアがサイエンスとしての医学の発達とともに臨床から乖離し、教育が行われなくなった。第二に、医学教育自体にケアの心を失わせる作用があり、医学生のケアの心は入学時がピークで卒業時に最低のレベルに低下する。第三に、医療改革や医療技術の進歩はケアという人間的な行為を改善ではなく、悪化させてしまう」と述べている。
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