株式会社日本医事新報社 株式会社日本医事新報社

CLOSE

齋藤野の人(上)【地霊の生みし人々(20)】[エッセイ]

No.4755 (2015年06月13日発行) P.72

黒羽根洋司 (山形県鶴岡市)

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-02-17

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
    • 1
    • 2
  • next
  • 齋藤 野の人こと齋藤信策が兄高山樗牛に初めて会ったのは、1886(明治19)年3月6日、祖母竹が危篤のときであった。16歳の樗牛は父の赴任先・福島の中学生、鶴岡の朝暘学校で学ぶ信策はまだ9歳であった。後年、信策は雑誌「中央公論」に「亡兄高山樗牛」と題する追悼の文を寄せ、「予は十歳の頃までは、樗牛が兄であることも知らず、又顔を見たことも無かった」と書いた。32歳の短い人生の折り返しにいた兄の颯爽とした姿は、信策にとって衝撃的であった。

    歴史に名高い源頼朝・義経兄弟の「黄瀬川の対面」が骨肉相食む悲劇の始まりであったのに比し、樗牛、信策の対面は、それぞれがかけがえのない存在となる運命的な出会いであった。信策の可憐さは、この原初の心を持ち続け、兄と同じ年齢を生きたことにある。だが、名利に恬淡、謙虚と地味さで送った信策の生涯は、才を誇り華やかに終えた樗牛のそれとは、まったく対照的であった。

    誕生、そして齋藤家について

    齋藤信策は、1878(明治11)年4月14日、親信・芳子夫妻の4男として鶴岡の高畑町に生まれた。姉が2人いて、6番目の子であった。高山家から婿に入った父親信は、子のない実家の兄、久平夫妻に次男の林次郎(樗牛)を養子におくった。1歳のときから林次郎は、高山姓を名乗ることになった。

    林次郎もすぐ下の良太も、父母によって異常とも言えるほど愛された。しかし、信策はこの2人の兄ほどには愛されなかった。母の芳に乳が足りず、里子に出されたためともされている。だが、大きな要因は、信策の生まれながらにして持つ性格、容姿にあった。信策の口数が少なく愛嬌に欠け、鈍重な印象が肉親からの愛情を薄くした。沈黙ゆえに愛されず、愛されざるがゆえに沈黙するという悪循環は、信策をさらに寡黙、内省の人にしていった。

    ところで、信策の生家である齋藤家は、代々庄内藩の薬草を管理する役を務め、15石2人扶持を支給される給人と呼ばれる下級武士であった。幕末期の蘭医・小関三英も軽輩の出であったように、この階層からは往々優れた人材を輩出した。役目柄、読み書き・算盤などに習熟した者が多かったからである。しかし、家中(上級武士)と給人(下級武士)との上下関係は堅牢で、相互間の婚姻すらも許されなかった。

    林次郎も信策も、四民平等で才能さえあれば立身出世が可能な明治の人として生まれ育った。世襲的な仕事に就くこともなく驥足を伸ばせる時代に生まれたことは幸せだったが、封建的な因習が残る旧城下町は、彼らに活動の場を与えなかった。林次郎も故郷についてほとんど書き残さなかったが、その思いは「故郷は語ることなし」と断言した坂口安吾と同じであった。若くして異郷で知的修練を積んだ者にとって、故郷は自分が後にしてきた出自を、できることなら忘れてしまいたいと思わせる両義的な場所であったと言えよう。

    残り1,133文字あります

    会員登録頂くことで利用範囲が広がります。 » 会員登録する

    • 1
    • 2
  • next
  • 関連記事・論文

    もっと見る

    関連書籍

    関連求人情報

    もっと見る

    関連物件情報

    もっと見る

    page top