司馬遼太郎によれば、長短の差こそあれ人の一生には、誰にも四季があるという。この人の後半生の背景には澄んだ秋の月光があり、ほのかに温かい冬の陽だまりがある。ここからは、本名の齋藤信策でなく、「野の人」と呼ぶのがふさわしい。
1897(明治30)年は、樗牛、信策兄弟にとって慌ただしいものとなった。5月、荘内尋常中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)を卒業した齋藤信策こと齋藤野の人は、父親信に伴われて上京した。間もなく父は帰郷し、兄樗牛宅に寄寓した信策は、第二高等学校(現・東北大学)の受験準備に取りかかった。ところが、7月に樗牛は病床に就き、2回の腸出血で絶対安静を強いられた。野の人は専心看病したが、入学試験を受けるため仙台へと向かった。そして、試験が終われば鶴岡へ帰るべきところ、独身の兄の看病のため仙台から上京した。
入学試験に無事合格し、9月には仙台に移り住んだ。こうして、野の人は鶴岡の父母とは会わずじまいのまま、二高の学生となった。
この波乱に富んだ年は、12月に樗牛が杉里子と結婚することで終えた。里子の父亨二は、日本における近代統計の先覚者である。わが国で最初に国勢調査を行った法学博士であり、後には学士院会員となった。時に樗牛27歳、里子は23歳であった。
晴れて二高生となった野の人はと言えば、既に文壇で名声を上げている樗牛の弟とささやかれることはあっても、風采も言動もまったく目立たず埋もれていた。いかにも田舎出風の青年は、強い東北訛りでクラスの人々の苦笑すら誘った。
そんな彼への認識を新たにするのは、二高尚志会へ応募した『春夜月に對す』が2等の選に入ったときからである。「野の人」への萌芽が生まれ、やがて開花しようとしていた。
野の人の入学とすれ違うようにして、わずか半年で二高教授を辞した樗牛は、博文館の正社員になった。彼が唱える国家主義・日本主義は、日清戦争後の国粋主義的な気運に乗ってもてはやされた。1900(明治33)年には、文部省から美学研究のための海外留学を命じられた。夏目漱石らと同時期の任命であり、帰国後は京都帝国大学の教授の地位が内定していた。その前途は赫奕たるものに見えたが、洋行の送別会後に喀血し、入院し療養生活を余儀なくされた。
残り1,324文字あります
会員登録頂くことで利用範囲が広がります。 » 会員登録する