子どもの頃から小さかった私は、木登りが得意でした。
登る木は決まっていて、道向かいの玉名高校の、いかめしい門構えの脇の楠です。ほどよい高さに横に伸びた枝があり、そこに腰かけて足をぶらぶらさせていると、自分より背の高い高校生や大人たちのつむじが見えます。いつも人から見下ろされてばかりいる私にとって、眼下に広がる世界は新鮮でした。優越感という言葉は知らなくても、木登りは小柄なおてんば娘の、唯一の気晴らしだったのです。
そんな楽しい木登りも、どうやら誰でもできるわけではないらしく、木登りパンダはありでも、犬には無理。猫はもちろん得意と言いたいところですが、降りるのが苦手な猫もいるようで、今朝のテレビでは木登り猫の救出にはしご車まで駆けつけたニュースが流れていました。
獣医さんの解説によると、猫は「前に進め」は得意でも、「後ろに下がる」のは不得手なのだそうです。だとしても、猫の救出をニュースで流すのは大げさではないかしら。駆けつけたのがスーパーマンだったら面白かったのにね。
私に猫語が話せたならば尋ねてみたい。どうして降りられないほど高い枝まで登らなくてはいけないの? とまあ、人間の基準で猫を判断してはいけませんね。もし猫に人間語がわかるなら、それも古典に興味があるのなら、兼好法師の『徒然草』を読むことをお勧めします。
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「高名の木登りと言ひし男、人をおきてて、高き木に登せてこずゑを切らせしに、いと危ふく見えしほどは言ふこともなくて、降るるときに軒たけばかりになりて、『過ちすな。心して降りよ』と言葉をかけ侍りしを、『かばかりになりては、飛び降るるとも降りなむ。いかにかく言ふぞ』と申し侍りしかば、『そのことに候ふ。目くるめき、枝危ふきほどは、己が恐れ侍れば申さず。過ちは、やすきところになりて、必ずつかまつることに候ふ』と言ふ」
教科書にも載っている有名な段ですが、大人になって読むと実に深い話だとわかります。人生に置き換えても、単純に木登りの教訓としても、納得します。登るより降りるほうが難しいことを、猫のみならずはしごに登りたがるご老人にも教えてあげたい。
ここからは実話です。70歳を過ぎても達者、健康に自信があったさる女性。「年を考えなさい」と家人に止められるのが癪で、誰もいない頃合いを見計らってはしごをかけ、見事屋根にあがったところまではよかったのですが、降りる際に足を滑らせ、側溝にはまり込んでしまいました。助けを呼ぼうにも誰もいません。いたとしても、恥ずかしくて声も出せないのです。家人が帰宅してみると泥だらけの婦人が唸っており、そのまま救急車で運ばれ、それがもとで亡くなられたと聞いたときは愕然としたことを覚えています。
大型犬を散歩させていて、自転車に乗っていて、一輪車を押していて、トラクターであぜ道を走っていて、転んでしまった人がいます。中心視力は保たれていても視野狭窄があり、危ないから運転は控えるよう注意しても聞き入れてもらえないこともあります。自分自身の能力を正確に査定することは意外に難しいのかもしれません。
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