古事記によれば、11代垂仁の子に髪が胸元に垂れても物言わぬ子がいて、夢に神が現れ、「私の神殿を天皇と同じくらいに立派にするなら口が利けるようになる」と言い、太占(神意をうかがう)を行うと出雲の大神の祟りとわかり、その言う通りにすると口が利けるようになった。
また、10代崇神のとき、疫病が大流行して死者が国中に溢れ、天皇が神床(神意をうかがうための寝床)に寝んだところ、大物主〔日本書紀は大国主と同一神、出雲国風土記(天平5<733>年)では大己貴、すわなち大国主の和魂、広辞苑は大国主と同一神、大辞泉は和魂としている〕が夢に現れ、「疫病は私の仕業によるもの、私を祀れば祟りは収まる」との神託を受け、大物主を三輪山(奈良県桜井市)に祀ると、疫病の流行が治まったと記されている。
国譲りの際の約束による出雲の大社の建築に加えて、後世まで出雲への畏れが続き、出雲の神々は権威を高めて、須佐之男(出雲国一の宮である熊野大社、日御碕、京都・八坂、大宮・東京・氷川、愛知・津島の各神社、熊野本宮大社、各地の須佐之男神社などに祀る)、農耕・健康神の大国主(出雲大社、京都・今宮、奈良・大神、金刀比羅、大津市・日吉、東京・神田明神、熊野那智大社、大山大神山神社、岡山・總社などに祀る)、戎となった大国主の子の事代主(美保、大阪・今宮戎、神戸・長田、京都・恵美須、伯耆二の宮の波波伎の各神社などに祀る)、事代主の弟の建御名方(諏訪大社などに祀る)などは今日でも重要な祭神となっている。
また、島根半島の美保関で大国主と会い国作りに協力した少彦名は、神産巣日の子で、病気や鳥獣の災いを除ける呪詛を行い、日本書紀では粟島(米子市彦名町、鳥取大学医学部の北側の地)に粟を蒔いて実った粟の茎に乗ってはじかれて常世国へ渡り、後世は神農(中国古代の神話上の帝王、人身牛首、炎帝神農氏、農耕医薬の神)と同一視され、医薬神となった(米子粟島神社、米子天神垣神社、大阪道修町・少彦名神社に祀る)。
大和心(魂)とは、日本人の自然で素直な心、優しく和らいだ心、勇敢で潔い心であり、「朝日ににほふ山桜花」のごとしという。この心は古来からの信心により生じたのではあるまいか。前項で垂仁、崇神が出雲の大神の祟りを鎮めるため出雲の神を祀ったが、これは自己利益を優先したことへの反省であった。
14代仲哀は神託を信じず、神帰せの琴を弾くのを止めたときに急死した。そこで、妻の神功皇后は神の許しを請うため、神の忌み嫌う穢れの罪を祓う儀式を行った。諸国から神への供物を集め、天つ罰(農耕に関する罪、朝廷の命令に反する罪)の生剥(生きたまま牛馬の皮を剥ぐ)、逆剥(牛馬の皮を尻から剥ぐ)、畔放(田の畔を壊す)、溝埋(田に水を引く溝を埋める)、屎戸(祭祀の場に糞屎をまく)と国つ罪(地上での犯罪、国法の罪)の上通下通婚(親子相姦)、馬婚、牛婚、鶏婚、犬婚(以上、獣姦)による穢れを祓い清めるための大祓を行った。
さらに、住吉の神の神託に従い、天つ神、国つ神、山の神、川の神、海の神など、もろもろの神に供物を捧げ、住吉の神の御魂を舟上に祀り、木を焼いた灰や箸と柏の葉の皿を海神に捧げながら新羅にわたり、新羅・百済を服属させることができた。
残り1,333文字あります
会員登録頂くことで利用範囲が広がります。 » 会員登録する