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ハインリッヒ・シュリーマンを死に至らしめた真珠腫性中耳炎 [エッセイ]

No.4777 (2015年11月14日発行) P.72

杉田克生 (千葉大学教育学部基礎医科学)

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-02-09

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  • 2015年2月3日、ロンドン出張の機内で、「有名人のその後」について概説した文庫本を読んでいた。その中で目についたのが、トロイア遺跡を発掘したハインリッヒ・シュリーマン(1822〜90)が「耳の病」の手術後、旅先のナポリで亡くなった件である。というのも、同僚で、シュリーマンにはとりわけ詳しいギリシャ古代史専門家の澤田典子先生から、彼の人となりを教授会の合間に少々聞いていたからである。

    ロンドンのホテルに到着後、インターネットで検索したところ、シュリーマンは「真珠腫性中耳炎で死亡」とあった。しかし、そこに至る医学的解説は見当たらなかったので、澤田先生に歴史的背景などをメールで伺った。また、耳鼻科には門外漢の筆者には「真珠腫性中耳炎で死ぬことはあるのか」との疑問が湧いた。そこで、同級生の嶋田耿子先生にも問い合わせた。そして、両専門家の意見に基づいて、シュリーマンの真珠腫性中耳炎による死亡への経過を私なりに演繹的に推論してみた。



    シュリーマンがかねてから左耳に持病をかかえていたことはよく知られており、晩年には左耳はほとんど聞こえなかった。「狂気と情熱の人」シュリーマンと、「氷のような客観性の人」ルドルフ・フィルヒョウ(1821〜1902)とは、1875年に出会い、1890年にシュリーマンがナポリで死ぬまで終生の友であった。2人が出会ったとき、フィルヒョウは彼の人生の最盛期にあり、ベルリン大学医学部長、プロイセン王国下院議員、ベルリン人類学会会長であった。シュリーマンと意気投合したフィルヒョウは、ヒサルルク(トロイア)の発掘にも立ち会っている。

    フィルヒョウは、1890年4月ヒサルルクでシュリーマンの耳を診察したことを、「シュリーマンの思い出」というエッセイにまとめている。シュリーマンの耳がほとんど聞こえないこと、耳の中に大きな腫瘍があり耳道が完全にふさがっていること、外科手術用の器具を持ち合わせていなかったのでそれ以上の検査はできなかったと記している。

    その後、亡くなる前月の11月13日に、フィルヒョウから紹介された耳鼻科医の手術を受け、乳様突起削開術で両耳の骨の突起を除去した。しかし、その後も痛みがおさまらないため、なかなか退院できなかった。耳鼻科医は中耳の骨膜の感染を疑ったが、シュリーマンは12月12日に強引に退院し、翌日ベルリンに向かった。

    そして、パリに行く途中“右耳の感冒”に罹り、パリで診察を受けた。それからナポリに移動してあちこち動き回り、ナポリからアテネ行きの船に乗ろうとしたが、“体調不良”のため乗船できなかった。12月25日にナポリの路上で意識不明となり、ホテルの部屋に運び込まれた。医師から重い“気管支炎”と“半身麻痺”と診断され、その後、昏睡状態に陥り、治療の甲斐なく翌26日に亡くなった。

    当時の新聞記事では、「左耳の炎症が広がって脳に膿瘍を作ったため、医師たちが頭に穿頭器で孔を開けるかどうか話し合っている間に息を引き取った」と報告されている。

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