1958(昭和33)年に大江健三郎が発表した『鳥』(『大江健三郎全作品』、新潮社、1966年刊)は、自分の部屋の中にたくさんの鳥がいると思い込んで自室に閉じこもっている主人公を、精神科医とおぼしき男が訪ねてきて、精神科病院に強制入院させるという話である。
この物語の主人公は、「1年以上も暗くした部屋にとじこもって夜となく昼となく部屋いっぱいになるほどむれつどっておとずれる鳥たちをあいてにひっそりと暮してきた」。ただし、主人公には見えたり触れたりできる鳥が、彼以外の人には見えないということから、この主人公は幻覚患者として設定されていることになる。
ある日、階段を上ってきた足音が、扉の向こうで止まった。主人公が体をこわばらせていると、母親の「ねえ、開けてほしいの、あなたに会っていただく方がいらしてるのよ」と言う声が聞こえた。彼が黙って息を詰めていると、扉の向こうでも同じように沈黙している。これまで外部から来た人たちは、せっかちに扉を叩いたり怒気を含んだ声を浴びせて、足音も荒く引き返すか肩を扉にあてて押し入ろうとしたのに、今日の客は「遠慮ぶかく、しかし執拗に待ちつづけていた」。
1カ月近く外部の人間と会っていなかった主人公が、今までとは態度の違うこの客を見ようと扉を開けると、そこには背の低い男が、ぎこちない微笑を浮かべて立っていた。母親が「この方があなたと鳥のことを話したいとおっしゃるのよ」、「そのみちの専門の方なのよ」と紹介すると、男は謙虚に、熱情に満ちて訴えかけるような眼を向けた。今まで、その種の用件で彼を訪れる人たちは、間の悪そうな薄笑いや医学的な知識を振り回す冷たい眼で彼を反発させたが、この男は「友情にみちた人間的な様子」をしていたのである。
周囲から異常扱いされることを嫌っていた主人公が、「どういうお話ですか」と尋ねると、男は「わたしは心理学をやっていますが、あなたの体験に非常に興味をもっているんです」と、誠実さに溢れた答えをした。この男の態度に友情を感じた主人公は、「ぼくは鳥たちと一緒にくらすために、大学へ出席することをやめ、この部屋に閉じこもる決心をしたんです」、「鳥たちのほかは、みんな他人だということがわかったからですよ。この部屋より外には他人しかいないということがはっきりわかったからです」などと打ち明けた。
すると、その男は「ひとつ試してみませんか」と言いながら、次のような提案をしてきた。「この部屋の外でも≪鳥たち≫があらわれるとなると、事情はかわってくるのじゃないかと思いますが」、「わたしの車に乗って、そこであなたが≪鳥たち≫を呼び寄せることができるかどうかです。それがあなた自身に由来するのか、この部屋に深いつながりを持っているのかがはっきりしますよ」。
このとき母親が、主人公が敵対視している兄たちはこの提案に反対するだろうと付け加えたこともあって、主人公は「やってみますよ」、「あなたの御研究のためでもあるんだから」と言って、その男の車に乗り込んだ。
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