文化が今ほど多様化されていなかった大正時代、文学こそが若者を熱くし、男女を魅了する最大の文芸であった。島田清次郎もメディアによって若くして祭り上げられた時代の寵児であり、傲慢と奇行が逆に若者たちの心をとらえた作家の1人であった。島田への憧れから発した行動が、自らの人生を大きく狂わせた女性もまた鶴岡の出であった。
1899(明治32)年2月26日、島田清次郎は石川県石川郡美川町(現・白山市)に生まれた。回船業を営む父は、清次郎が生まれた2年後、29歳の若さで海難事故に遭って世を去った。突然、生活の糧を失った母みつは、美川で飲み屋兼宿屋を営んで生活費を稼いだ。しばらくすると、飲み屋もうまくいかなくなり、姑が亡くなったのを機に、貸座敷「吉米楼」を営む祖父の西野八郎を頼って金沢に出た。貸座敷とは、要するに女郎屋で公認の売春宿のこと。金沢にある5つの廓の中で最も大規模な西廓にある吉米楼は、とりわけ一流の客筋を抱えた高級店であった。その名は、八郎が馴染みになった芸者の米吉をさかさまにしたものであった。
小学校を首席の成績で卒業した清次郎は、県立金沢第二中学校(現・県立金沢錦丘高等学校)に進学しても目立つ存在であった。弁論大会があると必ず登壇し、教訓的な演題で演説をした。その情熱的な語り口と身振りには上級生もかなうものなく、満場を圧するほどであった。そんな清次郎にまた新たな転機が訪れる。
祖父の伴侶である米吉の妹、時子のつてで、明治学院普通部2年に編入することになる。時子と親しい糸子が世話を受ける実業家の岩崎 一の豪邸に、清次郎と母、みつが住み込むことになった。
ここでも清次郎は優等生で、成績は学年で2番、得意としたのは演説であった。だが、東京の生活も長くはなかった。女中頭として岩崎家に迎えられていた母みつの再婚にショックを受けた清次郎は、岩崎と激しく衝突し、失意のまま再び金沢にもどった。復学、転校を重ねながら、しだいに清次郎は文学に傾倒し、創作を始める。1919(大正8)年、離縁された母との極貧生活の中から自伝的小説『地上』が生まれる。そして『地上 第一部 地に潜むもの』が新潮社から刊行された。清次郎20歳のことであった。
名だたる評論家による絶賛の書評が新聞や雑誌に掲載され、爆発的に売れはじめる。1年間で6万部を売り上げ、その後も『地上』は売れ続け、4部全体で総売り上げ50万部、大正を代表する大ベストセラーが誕生した。ある女学校の教師が、試みに「今の日本小説の登場人物で好きな男は誰か」と尋ねると、ほとんど全員が『地上』の主人公と答えた。清次郎は女学生にとって憧れの存在となり、もともと演説に自信のある彼は全国を講演旅行にまわった。どこへ行っても熱狂的に迎えられ、力強い演説で聴衆を沸かせた清次郎は、カリスマ的な人気作家への階段を駆け上っていく。
そして、その日がやってきた。
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