水に親しむ環境にある日本では、水に絡む事故の報告が絶えることがない。泳ぎのできない幼児が、親の注意がそれた瞬間に事故に遭うのは不思議ではないが、十分に泳げる青少年が泳いでいる途中で溺れるという事実に接すると、何故かといぶかる。私は、幼少時に2度溺れ、2度助けられた。本稿では、その経緯と、そこから考えられる溺水の機序について私見を述べたい。
私は6歳(幼稚園児)の頃には泳ぎができた。私の町では、誰もが子どもの頃から泳ぎができた。夏の昼頃、母に連れられて知人の家に行った私は、1人で近くの川辺で水遊びをしていた。ここは流れが緩く淀みになっており、対岸の製材所に丸太の筏がいくつも係留されていた。岸辺での水遊びに飽きた私は、すぐ目の前の丸太の下を潜り抜けようとした。しかし潜ったら、方向を間違えたのか、一面が丸太で水面が見えず、浮き上がる出口がなかった。後は記憶がない。自分では泳げると思っていたが、しょせん幼児の水泳で、たかが知れていたのだろう。
気がついたらまず天井が見えて、見知らぬ大人たちに囲まれて布団に寝かされていた。私が水遊びをしているのを、製材所の従業員の1人が仕事をしながらチラチラ見ていたのだ。私が潜ったのは見えたが、しばらく経っても浮き上がってこない。彼は製材所の広場を突っ切り、筏の上を走り、丸太の下に漂っている私を見つけ、引き上げてくれた。彼がどうやって蘇生させたのかはわからない。当時は現在の蘇生法はなく、顔を叩くか、指を口に突っ込み水を吐かそうとしたのかもしれない。反射がまだ残っていて、この刺激で呼吸が再開したのかもしれない。
小学校の2年か3年の頃、もう1度溺れた。前述の川の本流で泳いだときである。本流といっても普段は水が少なく、広い河原のあちこちに大小の流れがあり、子どもらは自分の泳力に合わせて流れを選んだ。このときは、6年生を先頭に6、7人の子どもグループで、滑り岩と呼ばれる泳ぎ場に行った。ここは、一群の岩が流れに突き出しているため川幅が狭い(7~8m)上に流れが速く、深く、波立ち、子どもには結構怖い場所であった。しかし、少し上流も、下流も浅瀬で、腰までつかれば歩いて渡れる。この急流は子どもらの泳ぎの試験場で、ここを泳ぎ切ることは子どものステータスであった。6年生の指揮者が対岸の河原に泳ぎ渡り、私を呼んだ。「おーい、飛び込め」。
私は岩を蹴り、真っ直ぐ対岸をめざしてクロールで泳いだ。憶えているのは、泳いでも泳いでも対岸に着かなかったことだ。気がつくと、私は対岸の河原に寝かされていた。
6年生が言うには、私は真っ直ぐ泳がず、途中から流れのきつい上流に向かって泳いでいたらしい。彼らは大声で叫んだが、まったく聞こえていない。やがて私が動かなくなり、沈みながら下流に流れていったのを追いかけ、引き上げた。彼らに何か処置ができたとは思えないので、引き上げて頰っぺたを叩いたら目を覚ましたのだろうか。
不思議なのは、2回ともまったく苦しさを覚えていないこと、そして苦しくなるはずの時点から記憶がないことである。その直前までは、はっきり記憶があり、直後からはまた記憶がある。2回目のときは低学年とはいえ小学生で、少しは思考もできたので、自分が溺れた原因について考えた。
私は水中でも目を開けているので、川底を見れば自分の泳いでいる方向はわかるはずだが、とにかく川底が見えたかどうか覚えていない。また、私はその頃、息継ぎはできたので苦しくなったら息継ぎをするはずであるが、息継ぎをしたかどうかも思い出せなかった(息継ぎで思わず水を飲めば溺水の原因となる。後述)。岩を蹴って一生懸命泳ぎながら、なかなか着かないなー、と思っているところまでしか記憶がない。
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