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浅田宗伯(4)[連載小説「群星光芒」241]

No.4829 (2016年11月12日発行) P.66

篠田達明

登録日: 2016-11-13

最終更新日: 2016-11-08

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  • 漢方界の総帥多紀元堅法印の知遇を得たわしは奥医師の小島学古、喜多村栲窓両法印とも親交を結び、天保11(1840)年に信州高遠藩の藩医に推挙された。
    これを機に新宿牛込横寺町に手頃な家をみつけて医塾をひらき、叔父の佐久間宗英の娘みちを嫁に迎えた。この頃には患者もずいぶん増えて医業は安定した。
    嘉永元(1848)年になると患者は年間1000人を数え、その9年後に公儀の御目見医師に召し抱えられた。患者も年間3000人近くに達し、内弟子も数十人に増えた。
    病人が多い夏は1日300人以上の患者が来院したので、待札300番を越える者は翌日以後に来診するよう頼んだ。診察せずに薬だけ取りに来る者も200人ほどいて、合計500人分の薬を門人が4人ずつ交代して調合した。薬袋は玄関脇の格子のある小部屋に名前を書いて並べておくと患者は玄関番に代価を聞き、支払いをして持ち帰る。わしは施療を旨としたので薬代を訊かずに薬だけ貰って帰る者もかなりいた。
    文久3(1863)年に患者数は4591人に達し、薬礼も2300両余りとなった。思えば26年前、日本橋に開業した年の薬礼が15両、翌年は28両だったから隔世の感がある。この間、わしの患者で最も印象に残ったのは旗本の川路聖謨殿だった。

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