酒田に住む文学少女、菊池リウが「埋れ草」の名で「女子文壇」への投稿を本格化させたのは、1908(明治41)年に、酒田高等女学校(現・県立酒田西高等学校)を卒業する頃からである。松の木陰で詩集を読む物静かな女学生は、投稿を重ねるうちに手紙文や美文などが同誌の臨時増刊号に写真付きで紹介されるまでになっていた。リウをそこまで駆り立てたのは、もちろん彼女の創作への憧れもあるが、「女子文壇」の詩欄の選者、横瀬夜雨への思慕の念からであった。
――なおなお自分は飽浦の埋れ草、都を恋わびるばかりでございます。――
――昨夜は先生の夢をみました。――
受け取るたびに心を妖しくゆさぶられる夜雨は毎日のように返事を書き、リウの手紙が来ない日は淋しくさえあった。修辞にみちた文の内容も、いつの間にか師弟の交情の域を超えていた。だが、夢見る乙女の純情が匂い立つリウの手紙に比べ、夜雨のそれには暗い影がつきまとっていた。11歳の年齢差からくる分別の違いとは言えない、夜雨が抱える底知れぬ鬱懐に由来した。
菊池リウ(リウ子、柳子はペンネーム)は1892(明治25)年、近代の傑僧と呼ばれた菊池秀言の子として生まれた。秀言は東根村(現・山形県東根市)の寺の長子で、15歳にして漢詩100首をつくるという秀才であった。21歳で上京し大谷派教務学校に学び、23歳で北京に留学、24歳で酒田の浄福寺の養嗣子となった。その後も北京で学び、中国への日本仏教布教を政府高官に提唱したり、福沢諭吉と2時間にわたる宗教談義をしたりして注目された。
やがて秀言は1882(明治15)年から本山に上がり、宗政に参加した。リウはこの時期に京都に生まれ、3歳までそこで暮らした。総理大臣となった清浦奎吾が、漢詩の添削を常に乞うたという秀言の文才は、子らに伝えられた。長男、公導は「曲馬団に売られた娘」などの小説を書き、三女のリウは「女子文壇」の花形歌人となった。
そんなリウが恋情を募らせた横瀬夜雨とは、いったいいかなる人物であったのか。
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