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精神医学的漱石論(5)─中村真一郎・江藤 淳 [エッセイ]

No.4836 (2016年12月31日発行) P.74

高橋正雄 (筑波大学人間系)

登録日: 2016-12-31

最終更新日: 2016-12-19

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  • 中村真一郎の『漱石の病理報告』

    1956(昭和31)年に中村真一郎が発表した『漱石の病理報告─日記から』(『群像日本の作家1』、小学館刊)は、精神科医による漱石論が稀だった当時、文学者が発表した病跡学的な漱石論として、注目に価する作品である。

    この論考で中村は、戦前には秘されていた漱石の1914(大正3)年の日記について、「この日記はまさに、当時の漱石の家庭生活における病的な苛だちをまざまざと描き出している」と、その資料的な価値を高く評価する立場から、この日記の病跡学的な意味を、次のように述べている。

    「ぼくらはこの大正3年の日記によって、ようやく今まで夫人の『思ひ出』などによって教えられていた漱石の神経衰弱状態の心理を、当の病人自身の筆によって知らされることになる」。

    中村は、大正3年の漱石の日記に、「一種の病状報告のドキュメント」としての価値を見出しているのである。

    その上で中村は、この日記の特徴を、「大正3年の日記の主題は、妻に対する不満という点で一貫している。それを微細な点に亘って、繰り返し書いている」、「妻のするあらゆることに癇癪をたて、漱石としては珍しいことだが、妻との会話なども小説ふうに詳しく記す」と指摘する。そして、そこに表出された漱石の病理性については、「不条理な疑惑、悪意で周囲を眺めないではいられない被害妄想的な精神状態」と主張するのである。

    中村は、漱石の日記の妄想的な特徴を認めているのであって、しかも、「この神経衰弱、この被害妄想、この病的な厭世観は、帰朝直後の症状と少しも変っていない」と、それが1903(明治36)年に漱石が英国留学から帰国した後の症状と、類似のものであることも認識している。特に注目されるのは、「神経衰弱時の意識の異常な緊張を、その創造の場として積極的に用いている」と、漱石が自らの神経衰弱を創作に活用したと指摘していることである。

    中村は「病気が強まった時の激しい猜疑心の働きを、彼の小説の方法として発展させた」と、神経衰弱に伴う「異常な緊張」や「激しい猜疑心」が、漱石の創作には有利に働いたという見方を提示して、「その病気の場合の心の働きそのものは、たしかに彼の天才の形成に有益であった」と主張するのである。

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