今回、西安で開催された中国小児外科学会に招聘され講演しました。西安は唐時代の長安です。長安をモデルとして造られた京都に生まれ、育った私にとって、仰ぎ見る東寺の五重塔は平安京のシンボルであるとともに安堵感を与えてくれます。そこでこの機会に、東寺を託された空海が留学した長安での足跡を訪ね、空海に思いを馳せてみました。
空海は804年に留学僧として長安をめざしました。約半年間、長安城内に師を探し求め、漸くたどり着いたのが中国密教の頂点に立つ恵果和尚が修行する青龍寺でした。死期迫る恵果は自分の持っているすべての知識、密教の法を空海に教えました。恵果の死後、空海は20年間の留学予定を2年で切り上げ、多くの密教法具や経典を携えて再び嵐の中を遣唐使船で帰国しました。空海に関する文献や本を調べているうちに米国へ留学した自分の姿を空海に重ね合わせていました。
1987年、ソルトレイクシティでの留学を終え帰国の途につく前、当時の常識を覆す画期的な鎖肛根治手術を提唱したニューヨークのAlberto Pena教授を訪ねました。大胆で緻密な彼の手術を助手の位置から何度も自分の目に焼き付け、後方切開術のビデオを宝物のように抱き抱えて帰国した自分の姿を思い出しました。
人口800万人の西安は車で渋滞していましたが、旧市街を囲む堅固な城壁はさすがに唐の都を彷彿とさせました。講演を終えた後、早速、空海が修行した青龍寺に向かいました。ひっそりした境内に足を踏み入れると、桜の木が植えられ、恵果に教えを請う空海の像がありました。真剣な眼差しの空海を見ると、飛行機などなかった時代に命を賭けて遣唐使船に乗り込んだ志の高さを想い、胸が一杯になりました。また、留学を終えて無事帰国できるかどうか不安な中、密教の法具や経典を1つ残らず遣唐使船に積み込んだ空海は、さぞ気魄に溢れていたことでしょう。
さらに翌日、密教の本山であった大興善寺へ行きました。恵果の死後、大興善寺の管理は空海に任されました。お経を上げる信徒は今では少ないものの、その光景は日本の寺と同じでした。しかし、説明してくれた物静かな青年僧の「来月、高野山で修行するため日本へ行きます」という言葉に、唐の時代は日本から中国へ、現代は中国から日本へ留学するという時代の流れを感じました。
こうして今回の西安訪問は、招聘講演だけでなく空海の足跡を訪ねたことで、味わい深いものとなりました。