世界で活躍している超一流のスポーツ選手は、しばしば含蓄のある言葉を残している。大リーグで活躍しているイチロー選手もその一人である。年間262本という大リーグ最多安打を達成した後の、TV対談のときだったと思う。「ところでイチロー選手は、投手のどんな球を待っているのですか、どんな球を狙って打つのでしょう?」と司会者が質問した。私は、ホームランバッターがよく答えるように失投を待っています、という答えを期待していた。ところがヒット打ちの名人イチロー選手の答えは「投手の投げる最も難しい球を狙って打ちます」という答えだった。確かに、イチロー選手に打たれた投手が「投げる球がなくなった」と言っているのを聞いたことがある。しかし、イチロー選手といえども1年を通して4割をマークしたことはない。
外科医にとって手術の打率は何割打つべきかと家内に質問した。「そりゃー、10割よ!」という答えが返ってきた。患者の立場からすると当然のことかもしれない。しかし、肺移植の黎明期には38例すべてが死亡したと報告されている。また、私が研修医であった40年前、受け持ち患者15人の心臓外科患者のうち8人が手術中に死亡した。かつて最も困難な手術にチャレンジする外科医にとっては、手術の成功率はイチロー選手の打率とさほど変わらなかった。
しかし、40年経った今、日本胸部外科学会2014年の学術調査によれば、心臓外科手術の死亡率は疾患にもよるが待機手術は概ね1%以下、きわめて困難な緊急手術や小児の複雑心奇形の手術死亡率も10%以下となっている。食道癌の術後死亡率は2%、肺癌の手術3万8085例のそれは0.7%であった。肺癌患者が手術を受けて退院する率を呼吸器外科医の打率と見なし、現在登録されている専門医1378人が手術を担当したとすると、1378人の平均打率は99.3%、およそ10割になる。最も難しい手術にチャレンジした先達が成功の奥義をサイエンスとして残し、それを若手外科医が学び、継承する。そして、改良を加えてさらに発展させる。
1997年に統計を取りはじめて以来、外科医の打率が後戻りしたことはない。患者さんのために10割の打率をめざすのが外科医の使命であり、日本胸部外科学会が認める専門医はその領域に近づいていると言える。