明治の中頃、近代俳句、短歌の革新者であった正岡子規は26歳の夏、東北の旅を思い立つ。芭蕉の『奥の細道』の足跡を訪ねる旅であったと言われている。カリエス(結核)で亡くなる、ほぼ10年前のことである。最上川を下って酒田に入った子規は、「名物は婦女の肌きめ細かなる処にあり」(『はて知らずの記』)と書く。創作の源は写生にありと唱える明治の俳聖の眼にも、庄内の女の肌の美しさは印象的であったようだ。
大正ロマンの美人画家の竹久夢二は、酒田を気に入り4度も訪ね、延べ2年あまりも滞在した。理想の女性像を求め、女性遍歴を画業の肥やしにした夢二ですら、庄内の女の美しさと佇まいは格別であったに相違ない。
秋田美人に代表される日本海沿いの女性の美しさと肌の白さの所以として、古来、諸説が存在してきた。そのひとつは、北日本沿いの地域と大陸とは、交易ばかりでなく男女の交流があったからとする説である。大陸からやってくるのはアジア系が主流であろうが、その向こうのアーリアン系やコーカサス系、あるいはその混血者などもいて、彼らがこの地域の女性の一種独特な美しさにあずかったというのである。色白で鼻筋が通り整った造作は、多民族が織りなして完成させた作品というわけだ。
別の説は、この地方特有の気候に根拠をおくものである。日照時間が少なく、日差しも力が弱いこと、冬の過酷な気象、とりわけ大陸からの厳しい風が女性の肌理と白さを生むというのだ。庄内では古い時代、女性は農作業のとき、顔を「ハンコタンナ」という黒っぽい布で隠していた。殿様などに見初められたり、夜伽に召されることを恐れて顔を隠すようになったとも言われている。美しい女性たちが身を守るのは、日光ばかりでなく男たちの誘惑でもあるというのだ。
しかし、美人という言葉ほど危ういものはない。若い時の美貌など実に頼りないもの、持って生まれた容貌が輝くのはせいぜい20代の終わりまでだろう。社会に出て働き、結婚し、世の中で揉まれだす生活が始まると、天与の美なんてものはすぐに衰えてしまって、別の何かが顔をつくり出す。
「人は顔という一番危険なものをさらしている」という箴言がある。生きざまが貧しいと、知恵と体験が練り上げるはずの自作の顔は、年輪と陰影を欠いたままで人前にさらすはめになる。
庄内の女たちの美しさは、生きた証しと心映えで醸し出したものとするのはお国自慢の言い過ぎだろうか。没して20年を経ても、今なお幅広い読者を得る藤沢周平は、庄内藩を模した海坂藩を舞台にして様々な女性を描いた。彼女たちの姿をかりて、その根拠を語りたい。
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