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連載を終えるにあたって(上)【地霊の生みし人々(32)】[エッセイ]

No.4855 (2017年05月13日発行) P.66

黒羽根洋司

登録日: 2017-05-14

最終更新日: 2017-05-09

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  • 山形県の西側、日本海沿いに広がる肥沃な一帯は、1622(元和8)年の酒井家入府以来、庄内藩という名で括られてきた。その中心となる鶴岡市は、同様のほかの城下町がそうであるように、人口13万ほどの地方都市である。この町に育つと、とても「大藩」というイメージをいだきにくいが、庄内藩は譜代大名の中では伝統ある名家であった。

    2011(平成23)年から始まった「地霊の生みし人々」を終えるにあたって、庄内の歴史と住民性などを語りながら、地の霊が人に化したかのような彼らの生き方の原点を探りたい。

    庄内藩のなりたち

    14万石を治める酒井氏は、江戸幕府・徳川家の始祖・松平親氏の二男、広親までさかのぼる。松平から酒井と名字を変えて家臣となった広親は、兄、康親を大いに助け、松平家の最も信頼する譜代の家柄となる。やがて、徳川家康の側近として仕え、幕府の樹立に貢献した酒井忠次は徳川四天王と称されるまでになる。忠次が庄内酒井家の祖である。

    移封と加増を重ねた酒井家が、信州松代城から鶴岡城に入ったのは、忠次から3代下る忠勝からである。以来、現在の18代当主忠久まで一度も転封もなく、藩主が今もなお地元に住み続けている。明治維新後、ほとんどの旧藩主が東京に出る中、地元に密着し「お殿様」と呼ばれる存在が残るのは、庄内と九州・柳川(立花氏)ぐらいである。

    2003(平成15)年に行われた新年恒例の宮中歌会始の儀で、17代酒井忠明の歌が披露された。「今もなお殿と呼ばるることありてこの城下町にわれ老いにけり」、これこそが旧藩主と住民の紐帯の強さを語る。この関係性は歴代藩主の安定した治世実績と、領民の藩への帰属性の深さがつくりあげたものである。藩を揺るがした一大事件を例にとり、自説にもう少し説得力を持たせよう。

    1840(天保11)年11月、幕府は武蔵川越藩松平家15万石を出羽庄内に、出羽庄内藩酒井家14万石を越後長岡に、越後長岡藩牧野家7万4000石を武蔵川越に移す三方国替えを発令する。この経過と結末については、篠田達明氏の連載小説「群星光芒」の「佐藤泰然」(本誌No.4811~4825)、拙稿「地霊の生みし人々」の「佐藤藤佐」(本誌No. 4613、4621)に譲る。鶴岡出身の藤沢周平も幕命発令から翌年7月の転封中止までを、緊張感に満ちた筆致で『義民が駆ける』(講談社刊)という小説にしている。

    幕府が公にした国替えを、藩中枢と領民が一体となって撤回させた前代未聞の快挙には様々に解釈が存在する。領主への追慕の念という一方的な美談にくみするつもりはないが、農民たちの行動力を支えた背景には、生活が困窮することへの恐れのほかに、百姓たりといえども二君に仕えず、という藩主への忠誠、親しみがあったのは事実である。

    封建制という束縛の下、庄内藩が比較的善政を敷き、領内もよく治まっていたことをもう少し示したい。庄内は表高14万石とされたが、実高はちょうどその倍あったとされている。この下支えは、庄内平野という広大な穀倉地帯と、日本海交易の主役である北前船にある。酒田の本間家といった豪商が酒井家の財政に重きをなし、北回り航路、最上川水路による中央との交易が地方経済、文化を大いに潤した。天明の大飢饉でも1人の犠牲者も出さなかったことで知られている。

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