緒方洪庵の適塾では、試問の成績が良い順に大部屋の窓際に寝起きの場所を与えられる。試問の日が近づくと塾生たちは少しでも良い場所を得ようと必死になった。
村田蔵六は既に周防(山口県)の梅田塾で蘭語の文法を会得していたので、すぐに上位の席を占めることができた。
大阪奉行所は日頃適塾の世話になり、洪庵に好意を持っていた。あるとき洪庵は、
「蘭方医術発展のため適塾で腑分けを実施したい」と奉行所に申し出た。
奉行所は快諾して、身寄りのない牢死者の遺体を貸し与えた。
解剖は適塾の井戸の石畳の上でおこなわれた。遺体は塾頭が執刀して解体するならわしである。その傍らに洪庵が立ち、それぞれの臓器と器官を説明した。
塾生たちは息を呑みながら人体諸器官の整然たる形態に見入った。蔵六もはじめての解剖に引き込まれ、「これぞ蘭方の神髄である」と深い感銘を覚えた。
入門して半年ほど経った頃、貧しい村医出身の蔵六は学資が尽きかけた。修業を続けるには自ら稼がねばならない。
塾生の中には蔵六の後輩、大鳥圭介のように按摩で稼ぐ者がいた。
師の洪庵も江戸の坪井塾で按摩をしたことがあり、圭介が洪庵の肩を揉むと「お前はわたしより按摩がうまい」と褒めた。
按摩などの心得のない蔵六は師に、
「学資が続きそうもありません」
と相談すると、洪庵はいった。
「わたしの門下生に長崎で開業する奥山誠淑という蘭方医がいる。よく流行っているので奥山の医塾で代脈をとりながら、合わせて現地のオランダ通詞から蘭語を伝授してもらうのはどうか」
弘化3(1846)年秋、蔵六は師の紹介状を手にして長崎の奥山塾に身を寄せた。
長崎で2年近く代診をしながら、オランダ通詞に就いて蘭語の修業をした。その間に得た代脈料はことごとく貯蓄したので、銀1貫500匁(約750万円)になった。
そこで嘉永元(1848)年に奥山塾を辞して故郷に帰り、それから大阪の適塾に再入門した。
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