医師の役割は「治すこと」と思っていた。入学したのは、一般の医学部ではなく、へき地勤務医師を養成する自治医科大学だった。この選択が、私のその後の“医療の在り方”に対する考え方を変えてくれたと思う。1988年に群馬県北西部にある六合村へき地診療所に赴任したが、当時はまだ“治す医療”をやるものだと思っていた。往診や出張診療や保健活動など、精力的にやった思いがある。
その後、1993年に介護老人保健施設を含む包括ケアの施設を“ふるさと創生事業”の一環として立ち上げたことが、医師としてのターニングポイントになった。それは、初めて触れた“包括診療”と“多職種との協働”であった。理学療法士や管理栄養士、薬剤師などの専門性の力で、薬で対症的に対応していた手法を今まで以上に補えることを体感した。
介護保険制度の施行に伴い介護支援専門員の道にたどり着いた。県内に先駆けて地域内に「ケアマネ吾妻の会」を立ち上げ、様々な基礎職を持つ人たちと交流するようになった。そして、奇しくもICF(International Classification of Functioning, Disability and Health)なる考え方に遭遇した。“命”は大切であるが、“生活”に目を向け、“人生”を全うすることの重要さを目の当たりにした。個人を癒すだけではなく環境も考慮する。そして、“地域”という場を見つめ直すことなども。六合村が消滅し中之条町として生まれ変わった時、“地域は変貌するもの”と実感した。それに呼応して、我々が提供する医療も“変わらなければならない”と痛感した。
東日本大震災。宮城県女川町での体験は、“看取り”の本質を教えてくれた。しかし、医療が消滅しかけた地域でも、歯を食いしばって生きている人たちが大勢いた。死は必ず訪れるもの、でも生きている時は人生を全うしたいものだ。我々医師の役割の幅広さ、奥深さに慟哭のような衝撃が走った。
日本の医学教育は、世界でトップクラスの専門性を持つ人材を輩出してきた。しかし、マクロな視点での総合的な医療分野はどうだろうか。総合診療の定義さえ曖昧なのが現状ではないか。ましてや、認知症や障害、独居、超高齢など多くの課題を抱え、しかも地縁・血縁が薄れ、ネット社会という目に見えない“縁”に左右される複雑な現代社会において、人を診て、治す…ことだけでは到底すまない。どこまでが“総合”なのか…?我々医師が“ガラパゴス化された存在”にならないように、多様化社会の多職種におけるしっかりとした1つの歯車でありたいものだ。