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ミラノ《音楽家のための憩いの家》でのコンサート 老人施設のさきがけ[エッセイ]

No.4689 (2014年03月08日発行) P.70

太田妙子 (大阪府箕面市)

登録日: 2014-03-08

最終更新日: 2017-09-08

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2013年10月10日はイタリアの作曲家ヴェルディ(Giuseppe Verdi,1813〜1901年)の200回目の誕生日。それに合わせヴェルディ同好の仲間でイタリア旅行が企画され、20人余りが参加した。

その行程中の1日、10月15日にミラノ・ボナロッティ広場の《音楽家のための憩いの家》でミニ・コンサートが催された。

この建物は、設立から110年以上経ち、広さは3000m2ほどで建築家カミッロ・ボーイト(Camillo Boito,1836 〜1914年)と施主であるヴェルディ、後妻ストレッポーニ(Giuseppina Strepponi,1815〜97年)らが相談しながら創ったものである。床も壁も墓廟も趣向を凝らして美しく念入りに造られている(写真1)。


19世紀半ば、若きヴェルディは、折しもイタリア王国統一運動の波に乗ったオペラ《ナブッコ(バビロニア王ネブカドネザル)》で人民の熱狂的支持を受け、統一国家イタリアの国会議員にも推挙されている。その後、音楽の才能を発揮して歌曲を量産し、国民的オペラ作曲家となった。彼は実務にも長け、蓄財の才も持ち合わせていた。住居を構えたサンターガタには広い農地を購入している。

また、著作権など保障されていなかった時代に今では当然である権利を主張したのも彼である。功なり名を遂げ財をなし長寿でもあり、加えて現代に継がれる老人施設、社会事業を成し遂げた。その頃病院のなかった田舎サンターガタに病院を建設し、最晩年にはミラノ郊外に音楽家達の老後の拠り所《憩いの家》を建設したのである。

青年ヴェルディは、長女、長男、妻マルガレータと立て続けに家族全員を亡くし、27歳にして1人になった。妻子に早逝されたことはまことに不運であった。しかし、稀な幸運というべきは第1作《オベルト》(現代では上演されていない)が、いきなりスカラ座デビューしたのである。そのメロディーは音楽関係者の耳にも届いていた。《ナブッコ》でアビガイッレ役を歌ったソプラノのストレッポーニはすでに歌手としての名声と地位を獲得していた。ヴェルディが行き詰まった頃、彼女が相談に乗り、オペラ作曲家としてさらにスカラ座へ推挙したのである。やがてヴェルディブームが沸き起こる。

互いに独身のヴェルディとストレットポーニは親しくなった。ところが結婚するには大きな障害が立ちはだかった。このプリマドンナはなんと3人の私生児を持つ母でもあったのだ。
時代の人々の白眼視にも遭った。10年以上の長い同棲の末、2人は45歳、43歳の時正式な結婚に至ったのである。教会や世間の冷たい風にさらされないようにサンターガタの邸内には彼女のための祈りの1室、礼拝所を設えた。雇っている農夫たちもこの教会に祈りに来たらしい。

オペラ《椿姫》の中の主役ビオレッタの慟哭「神は許しても世間は許してくれないのね!」とはそのままストレッポーニの嘆息であろう。ヴェルディの名作《椿姫》誕生に彼女の存在はとても大きく重い〔原名《La Traviata》(ラ・トラヴィアータ)直訳では「道を踏み外した女」〕。

ヴェルディのストレッポーニに対する思いとしては、妻として以上に、芸術における同志、盟友、恩人としてとりわけ大切に思っていたのではないか、と推測する。

老夫婦はこの《憩いの家》の建築現場を訪れ、レンガが積まれていく状況を見ては心待ちにしていたらしい。だが、残念なことにストレッポーニは夫より少し早く1897年に82歳でこの世を去った。

テレーザ・ストルツ(Teresa Stolz,1834〜1902年)の出現は晩年の妻を悲しませたが、ヴェルディにとって想像を掻き立てる若い才能ある歌手の存在が必要であったのだろう。

音楽家のための憩いの家

ヴェルディは、退職した音楽家のため老人施設建設に取り掛かった。建築設計はボーイトである。そのスタイルはベネチアン様式と呼ばれるそうだ。

施設運営資金として、ヴェルディの死後作品の著作権が切れるまでの50年間の収益が注ぎ込まれたという。1962年頃まではそれで賄われ、以後多くの篤志家が寄付をしている。最近は施設利用者にも少しの負担をしてもらう場合もあるそうだ。

建築家ボーイトは、ヴェルディ晩年のオペラの台本作家アリゴ・ボーイトの兄にあたる。何よりもヴェルディが彼の建築を評価し,とても気に入っていたらしい。

案内人フェルナンド氏の解説によれば、正面がヴェネト―ヴェネチアン様式、装飾はアラブ模様、トスカーナのゴチック様式も組み込まれている。総じて「ボーイトスタイル」と呼ぶそうだ。外壁や内部の床、壁面、天井画までサラセン様式の凝った幾何学紋様が埋めている。

図面を引くにあたってボーイトは当初この施設の名称を《Ricovero di Musicisti》とし表札の草案を施主に提示した。だがヴェルディはこのRicovero(「養老院」「収容」「保護」という意味)を決して受け入れなかった。「ここは収容所ではない。入居する人々は皆私の客人である」というのである。そこで《Casa di Riposo per Musicisti》(音楽家達の憩いの家)と命名されたという。今もボーイトの原案《Ricovero di Musicisti》を示す原画が残されている。

入居資格としては、ヨーロッパ市民で65歳以上のアーティスト、作曲家、指揮者、歌手、オーケストラ団員、音楽教師、合唱団員、バレエダンサー、およびその配偶者、未亡人が対象となる。そして費用は無料から所得(年金であればその80%)に応じて額が決まる。

中には居室として80部屋ほどあり、退職した元音楽家たちが70名ほど住んでいる。1990年代からは優秀だが経済的に裕福でない音楽家志望の若い学生が入居でき、一部居住するようになった。音楽家大先輩との交流、共に住まうだけでも若者にとって刺激的だろう。現在ロシア人、韓国人が入居しているそうだ。


10月15日午後4時、約100人収容できる高天井のゆったりした2階のホールで演奏が始まった。我々一行だけでなく一般にも開放されたミニ・コンサートである。わが国でもテレビ番組「題名のない音楽会」で紹介されたリナ・ヴァスタさん(Lina Vasta,現在このCasaに居を定める84歳の歌手である)、その他二期会やイタリアで活躍中のバリトン歌手上江隼人さん、スカラ座合唱メンバーのバスAiberto Rotaさんらも加わっての1時間半たっぷりとヴォーチェ・ヴェルディアーナがホールに鳴り響いた(写真2)。


1階にはピアノのある練習室。2階の「トスカニーニ」と名付けられた部屋では居住者が自分のゲストを迎えることもでき、週1回映画も上映されている。ダイニングルームは「プッチーニの部屋」と呼ばれているそうだ。2階のこのコンサートホールにはイーゼルにヴェルディ肖像画〔1886年ボルディーニ(Boldini)作の複製〕が立て掛けられ、壁面上方からはパレストリーナ(Giovanni Palestrina,1525〜94年)ら8人のイタリア音楽家がホールを見守っている。

設立当初からこのように音楽の共用スペースがたっぷり用意された施設で、アーティストたちが活躍した時期や思い出の温もりがそこここにある。ヴェルディが「ここは収容施設ではない。憩いの家なのだ!!」とこだわったわけである。

ここでは「音楽家としての尊厳」がはじめから最も大切にされてきた。どんな施設でも「老い」に「過去の栄光」や「尊厳」を寄り添わせることは難しい命題だと思う。老人の内面や誇りがこれほど大切に守られているホームを私は知らない。

後年、一番好きな作品は? と聞かれたヴェルディは,この《憩いの家》と答えたという。自らが最高傑作と称する作品《憩いの家》を遺し得た人生、まことに見事という他ない。
2013年のイタリアの歌劇場では「Viva Verdi ! (ヴェルディ万歳!)」の掛け声が聴衆からよく飛んでいて、今も私の耳に残っている。

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