パリ・セーヌ川左岸、エッフェル塔の南側にはアンヴァリッド(廃兵院)があり、ナポレオン・ボナパルトの大きな石の柩が安置されている。構内にはフランスの軍事博物館もあり、近・現代の展示物はもとより、十字軍や三銃士時代からのものも展示されている。ひときわ目を引くのはグランダルメ(Grande Armée:大陸軍)、 ナポレオン軍のきらびやかな軍装だ。
赤や緑、青や白の上着とズボン、金色のボタンに肩章、服を彩る金モール、色とりどりの羽飾りを立てた帽子や兜、さながら人間極楽鳥のようである。色の組み合わせやデザインで、階級や兵種、所属部隊が一目でわかったらしい。近代以前の軍隊は、鮮やかな軍服で兵士たちの士気を鼓舞していたという。これらの軍勢が揃う観兵(閲)式はさぞ華やかだったにちがいない。もっとも、20世紀になってから軍服は山野で目立たない地味なものや迷彩柄となった。そして、派手な観兵式をする軍隊は戦さに弱いと、戦前の軍人だった父が語っていた。事実、米軍もイギリス軍も、そして旧日本軍も、軍服や軍事パレードはむしろ地味である。
1812年6月24日、フランスの勢力下にあった当時のワルシャワ大公国の東端ニーメン川の河畔で、ナポレオンはロシア侵攻を前に麾下の兵の観兵式を行った。ひときわ華やかな出で立ちは、皇帝直属の近衛部隊である。しかし、ナポレオンの閲兵の最中に空はかき曇り、雷が鳴ったという。この軍事作戦の将来を暗示していたかのようでもあった。パリから2000km、モスクワまで800kmの地点である。
この時、対岸から反撃の銃声はなかった。ニーメン川を渡ったグランダルメは約45万人の兵であり、フランス兵はそのうち1/3で、残りはナポレオンが征服したオーストリアやドイツ、イタリアなどから供出させた軍である。この軍団では様々な言語が飛び交い、あたかもバベルの塔の建築現場のようだったという(旧約聖書の神は、神と競う塔をつくる人間の傲慢さへの懲罰で、人々の言葉を通じなくした)。そして、軍の補助員、将軍たちの従者、兵士相手の商人、慰安婦など何万もの非戦闘員がそれに続いた。これらすべてがニーメン川を渡り切るのに1週間かかっている。
が、半年後に戻ってきた将兵は数千人だけであり、ナポレオンは没落の坂を転げ落ちることになった。モスクワからの逃避行の最中のベレジナ河畔の会戦中に、後衛を勤めたネイ将軍が妻に宛てた手紙には「ロシア軍の弾丸ではなく、飢餓将軍と冬将軍がグランダルメを征服した」と書いている。しかし、彼らを打ち破った主役は冬将軍ではなく、目に見えない隠れた将軍であった。
大革命後の混乱期と諸外国からの干渉戦争を経て、フランスでは1799年にナポレオン・ボナパルトが第一執政に、1804年には皇帝になり、戦争を繰り返して、ヨーロッパ大陸をほぼ勢力下に収めた。だが、海の向こうのイギリスは従わず、海上貿易を破壊し、スペインなどでの反仏抵抗運動を支援していた。ティルジットの和約で友好関係になったはずのロシアが、そのイギリスと交誼を結んでいる徴候があり、それがナポレオンの対露疑心を煽っていた。独裁者の「癪の種」は往々にして事態を大きくし、直接行動に走らせる。
1812年1月、ナポレオンは40万人の軍隊の50日分の糧秣準備を命令した。2000万食の堅いパンが焼かれ、米や小麦粉が調達され、厖大な飼葉も準備された。それらを運ぶには6000台の馬車や牛車が必要だった、とてつもない量ではあるが、彼は短期決戦のつもりだった。
ロシア戦役では、侵攻部隊と後備の警戒や予備・交代の兵員を含めて、約70万人を動員したという。当時、兵役に就くと、1/3は戻らなかったというが、戦死よりは病死が多かった。遠征地での風土病もあるが、軍隊病とも言う不衛生な集団環境での病気もあった。ナポレオン自身も若い頃にマラリアに罹患したことがある。彼は、まだ目新しかった種痘の信者で、生後2カ月のわが子に接種させ、新兵は全員、将校にも奨励した。しかし、病気に関しては運命論者で 「病抵抗すべくもない」と口にしていた。ナポレオンは「医学は暗殺の科学だ」などと医者へは批判的だったが、それでも軍医は要る。若い頃からの知り合いで、イタリアやエジプトの戦役にともに従軍した、ドミニク=ジャン・ラレー男爵を遠征軍の軍医長に任命した。皇帝より6歳年上の48歳であった。戦場を巡って負傷兵を治療する救急馬車の考案で医学史に記憶されている人物である。また、ベルギー人の外科医ジョセフ・ロマン・ドゥ・カークホーブもネイ将軍の司令部で働くことになった。
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