「時すでに遅し」
奥羽鎮撫総督府の軍事参謀世良修蔵は仙台藩の使者に向かってそう言い、和平嘆願書を撥ね付けた。さらに顔面を強張らせ、
「われら官軍は会津を掃討せよとの勅許を得た。増援軍が到着次第、ただちに会津を攻略いたす」と言い放った。
激昂した仙台藩士はその夜、世良の泊まる妓楼を襲い、滅多斬りにしたうえ遺体をバラバラにして打ち捨てた。
事態を収拾しようと東北と越後諸藩の家老たちは奥羽越列藩同盟を組織して会津討伐中止の建白書を薩長政府に提出した。だが、なんら音沙汰はなかった。
「こう騒がしくては落ちついて勉強などできません」、「ほとぼりがさめるまで故郷へ帰してください」
医学所ではそう言い出す生徒がふえたので希望者には帰省を許可することにした。
また、薩長軍の先遣隊が江戸の郊外に達したと聞いて、未だ治っておらぬ傷病兵30人を医学所から今戸(東京都台東区)の称福寺に退避させた。
診療のかたわら門人の南部精一郎から会津藩の現況をきいた。
「わが殿松平容保侯は薩長軍が攻めてきたら徹底抗戦する肚を決めておられます。すでに重臣を集めて全軍を《青龍》、《朱雀》、《玄武》、《白虎》の4部隊に編成し直しました。農民、町人、猟師だけでなく、神官や僧侶らからも志願兵を募って臨時部隊を組み、弓矢を心得た者は弓術隊、火縄銃をもつ者は鉄砲隊とするなどの対策を練っています。農民たちも進んで兵粮米を拠出しており、たとえ籠城戦になろうともひと冬は越せるほどの糧食が城内の米倉に確保されたそうです」
新選組の援護者だった容保侯とは京師で何度もお会いしたことがある。病弱の身でありながら徹底抗戦に踏み切る容保侯の覚悟には身の引き締まる思いがした。
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