2017年1月、パリに出張した折に神経学の泰斗を多く輩出したこの国の医学史跡をいくつか巡ってみた。宿泊したホテルがサンジェルマン大通りに近かったため、岩田 誠著『パリ医学散歩』(岩波書店刊)1)を手がかりに大通り周辺を散策した。
まずは、ホテルから歩いて5分ほどのサンジェルマン大通り217番地のシャルコー邸に向かった。シャルコーはサルペトリエール病院に赴任する前は、一般内科医としてリウマチ、痛風、感染症、肺疾患を研究していた。1884年からここに転居し、1893年に亡くなるまでの終の住処である。建物の外壁のプレートには、“Fondatur L’Ecole de La Salpetriere”と記されている。
その後、大通りを東進し、サン・ペール通りを左折すると、以前シャリテ病院があった一帯となる。フランス王アンリ4世に嫁いだマリー・ド・メディシスの命で1601年に建設された。「この病院は、慈愛の洗礼者ヨハネに捧げられたため、シャリテ病院とよばれる」1)と記されている。個人的には、ベルリンの救貧院として設立されたシャリテの名称も慈愛に由来していると思っていた。ただ、帰国後に読んだE.H.アッカークネヒト著『パリ病院』(思索社刊)2)には、「シャリテは、1607年シャリテ兄弟の創設になり、サン・ペール通りにあった」と記載されていた。考証学には素人であり、これ以上立ち入ることはしないが、少なくとも納得しやすい自己流解釈には常に注意が必要である。
シャリテ病院は「パリ最高の病院」とされ、その後パリの「臨床医学教育の発祥地」となり、多数の医学生が育っている。特に有名なのは、グラーツのアウエンブルッガーによる打診法を世に知らしめたコルヴィサールである。彼は鋭い観察眼の持ち主であり、シャーロック・ホームズのモデルであるエジンバラのジョセッフ・ベル教授3)を思い起こさせる。18世紀以降、ベッド・サイドでの臨床教育はライデン、ゲッチンゲン、ウィーン、エジンバラなどで始められていたが、臨床教育の重要性を再認識させられる。ここで学んだ内科医にラエンネックがいるが、彼はコルヴィサールに師事し、後に聴診器を開発した。
1935年にパリ大学に新医学部が建設されることになり、シャリテ病院自体は取り壊された。新医学部棟外壁には、1階上部にギリシア建築のメトープを思わせる種々の医学史関連の浮き彫りがある。聖王サン・ルイによるらい病を治す「王の手」が、個人的には特に印象深かった。シャリテ病院の一部であったサン・ピエール礼拝堂は現在も残されており、その玄関の上には蛇の杖を左手に、杯を右手に堂々と座すアスクレピオス像がある。ローマ大学医学部La Sapenzaを卒業された中田吉彦先生の言では医学史は必修の課目だそうで、日本の医学教育でも学ばせるべきである。イタリアやフランスでは「哲学」も医学部1年生で必修であり、不合格では進級できない。昨今の日本の医学部生ならびに医師の現状を鑑みると、早々に導入すべきであろう。
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