1947年にアガサ・クリスティーが発表した『ヘラクレスの冒険』(田中一江訳、早川書房刊)は、ポアロが古代ギリシャの英雄ヘラクレスにならって事件の解決に挑む、という話である。引退を間近に控えたポアロは、ギリシャ神話におけるヘラクレスの12の難業を参考にして12の事件の依頼を受けようと決意するのであるが、その過程で、ヘラクレスにまつわる資料を調べたポアロは、ヘラクレスに対して、「これが英雄か!英雄が聞いてあきれる!」といった否定的な感情を抱くようになる。
ポアロによれば、ヘラクレスは「ただの図体のでかい筋肉自慢で、ろくな知性もなく、おまけに犯罪癖をもったろくでなし」なのであって、19世紀末にフランスのリヨンで裁判にかけられた殺人鬼を連想させる人物である。というのも、リヨンの殺人鬼も、「数人の子どもを殺害した牛みたいに力の強い男」で、しかも自分が犯した事件は「病気の発作によるものだ」と主張したからで、この男と比較しても、ヘラクレスは「おそらく重症の患者だったのだろう」と推測されるというのが、ポアロの見解だった。
ポアロは、「たとえ古代ギリシャでは、そんなものが英雄と考えられていたにしても、現代の尺度に照らしたら、まったく通用しないに決まっている」と、ヘラクレスは現代の基準からすれば、英雄どころか、病的な犯罪者にすぎない、と断罪するのである。
そればかりかポアロは、古代ギリシャ神話に出てくる神々についても「こういう神や女神たち――彼らは現代の犯罪者に負けず劣らず、さまざまな変名をもっているように思えたのだ。じっさい、彼らはどう見ても犯罪者タイプに見える。飲酒、放蕩、近親相姦、強姦、略奪、殺人、詐欺――こういろいろあっては、予審判事は忙しくて休むひまもない。まともな家庭生活はなく、秩序も規律もどこへやら」と、その病理性や犯罪性を指摘している。
すなわち、ここでのポアロは、神々と狂気という、ギリシャ神話に対するある種の病跡学的な解釈を提示しているのであるが、その一方でポアロは、自分とヘラクレスの類似点も見出している。それは、「両者とも、世の中からある種の迷惑を駆逐するのにまちがいなく役に立った」ということで、自分とヘラクレスには、「どちらも、自分が暮らす社会に貢献した」という共通性があることに気づいたポアロは、自らを「現代のヘラクレス」に見立てて、12の事件に取り組むのである。
そうした事情から、『ヘラクレスの冒険』は12の事件からなる短編集であるが、そのうちの第7の事件「クレタ島の雄牛」には、自ら発狂すると思い込んで世をはかなみ、婚約を破棄しようとする青年が登場する。
ある日、ポアロのもとを、ダイアナという名前の若い女性が訪れる。彼女の婚約者であるヒューという青年が、「自分が気が狂いかけているから、結婚してはいけない」と言い出した、というのである。しかし、彼女が見るところでは、ヒューは正常そのもので、おかしなところはどこにもないという。
ヒューが自らの発狂を恐れる理由のひとつは、遺伝的な問題である。ヒューの父方の家系には1代か2代おきに「精神異常者」が出ており、特に彼の祖父は、30歳頃までは何ともなかったのに、最後には「すっかり気が狂ってしまい、人を殺して、精神病者と認定せざるをえなくなった」。そのため、ヒューは、自分も祖父のように「強制的に監禁されたまま、いつまでも生きながらえる」というようなことになるのではないか、と恐れていたのである。
もう1つの理由は、ヒューが自分でもそれとは知らぬまま、残酷な行為を犯しているのではないかという懸念である。というのも、ヒューの村ではこのところ、羊が殺されたり、彼の家で飼っていた猫や鸚鵡も咽喉を搔き切られた状態で見つかるなどの事件が続いていたが、そのいずれの日にも、自分の部屋で寝込んでいたヒューの服に血がついていたり、彼の手に血まみれのナイフが握られたりしていたからである。
ヒューには、自分がそんなことをした記憶はなかったものの、遂に彼には、そこにいないはずの人物が見える、という幻覚が出現するまでに至ったため、彼は、「ぼくにはそういう血が流れている。そういう血統なのです。逃れることは不可能だ」と、悲観のあまり、自殺しようとするのである。「そういうことをしているのはぼくじゃなくて、ぼくの中にはいりこみ、ぼくを操る、ほかのだれかなんです。そいつがぼくを人間からおそろしい怪物へと変えてしまうんだ」。
実は、これら一連の事件は、ある人物が様々な手段を使ってヒューに自分が狂気に陥っていると思い込ませるために仕組んだ策略だったことが、ポアロによって明らかにされるのであるが、この作品では、ヒューの祖父が「最後にはひどく凶暴になりました」と言われるなど、狂気と暴力の関係が強調されていることや、狂人の邪悪性を強調する、次のようなポアロの言葉が気になるところである。「家系に狂気の血が流れているのです。復讐の執念に燃えたひとりの狂人が――多くの狂人がそうであるように、きわめて狡猾に――その狂気を長年にわたって隠していたのです」。
これらは、当時の英国社会が精神障害の遺伝性や暴力性に対して悲観的な感情を抱いていたことを示唆する表現であるが(作品の最後で、ポアロは、ヒューを狂人に仕立てようとした真の狂人が自殺するのを、止めようとはしない)、この作品には1つの救いがある。それは、終始ヒューの正常性を疑わずに、彼を信じ、支え続ける許嫁のダイアナの姿で、彼女は、自分が狂ったと嘆くヒューには、「だれだって、どこかしらおかしなところはあるでしょうに」と、慰めている。また、ポアロから、「彼の家族に精神異常者がいるのでは?」と尋ねられたときにも、ダイアナは、「どんな家系だって変わり者はいますでしょ。おつむが弱い人がいたり、ずばぬけて頭の優秀な人がいたり、なにかしらあるものだわ」と、ことさら狂気の遺伝性を問題にしないような応答をしている。
ダイアナは、ヒュー自身のみならず、周囲の人々もこぞって彼の狂気を主張する中で、彼の遺伝的な負因にとらわれずに、あくまでも「わたしは彼は狂ってなんかいないと思ってるわ」と主張し、だからこそポアロの助力を得て、彼の正常性と身の潔白を証明することもできているのである。