一人前の棟梁になるため上方に出た恋人・庄吉の言葉を信じ、身の貞操を守ると決意したおせんを翻弄する運命を描く、江戸下町を舞台にした作品。山本周五郎著、新潮文庫に収録
小学校6年生の時「フランダースの犬」を読み泣いていたM君を、私とH君は大笑いしてからかった。しかし、2時間後、H君が本を片手に目を真っ赤にしているのを見て怖くなった。結局、20歳過ぎで読むこととなる。恥ずかしながら、泣いた。
それ以上に大泣きしたのが山本周五郎の中編時代物小説「柳橋物語」。終盤、わずか1ページの中に絵にかいたような善悪の逆転がある。
江戸茅町の杉田屋の職人・幸太と庄吉、そしてその幼馴染おせん。跡取りは幸太に決まり、失意の庄吉は上方修行へ。別れ際、恋仲の庄吉とおせんは「帰るまで待っていてくれ」「待っているわ」と会話を交わす。その後、幸太からの求愛をはねつけ、おせんは操を守る。ある日、江戸は大火事に。この時駆けつけた幸太は、おせんと父を救い出し自らの命を落とす。苦しかった片思いの日々を告白して。火事で孤児となった赤子(幸太郎)を拾い、育てながら懸命に生きるおせん。やがて庄吉が戻るが、幸太との仲を怪しみ、おせんを冷たくあしらう。おせんは、自分を本当に愛したのは幸太であったと知り涙する。
善悪の逆転と書いたが、よくよく読むと3人の主人公誰も悪くはない。運命に翻弄されただけなのである。自らの半生を振り返るとさまざまな人と相まみえてきたが、ときにこの小説を思い出すことがある。誰が白なのか、何が黒なのかがわからない。いや、自分が白なのか黒なのかさえわからず、そこに悩みの大部分が集中する。島倉千代子から「人生いろいろ」と聞かされてさらに迷ったこともある。その後、人の“生態系”という言葉を知らされ納得したりしたこともある。子供から大人(?)になるときに伴走してくれた本かもしれない。