高校の英語の授業で綴りと読み方がまったく異なる言葉を教わって奇異な印象を受けた記憶がある。たとえば、etc.をand so onと読んで、e.g.をfor exampleと読む。教師はなぜそう読むのかという解説は一切せず、生徒は理屈抜きの丸暗記を強いられた。
etc.はet ceteraというラテン語の短縮形で、「など」や「等々」を意味し、英語のand so onに相当する。e.g.は「例を挙げれば」という意味のラテン語のexempli gratiaの頭文字で、英語のfor exampleに相当するということを、医学生になってから初めて知った。英語に流入して定着したラテン語がいくつもある。
英語の医学文献でet al.という文字をよく目にする。etはandに相当し、al.は「その他」を意味するaliusというラテン語の短縮形だから、「そしてその他」という直訳になる。ある論文を書いた代表研究者の名前の後に添えて、その他にも共同研究者がいることを示している。
「アリバイ」という言葉がある。aliusが「別」とか「その他」という意味で、ibisが「場所」という意味だから、アリバイは「別の場所」という直訳になる。ある事件が起こった時に、同じ時刻に事件現場とは別の場所にいたことが客観的に証明できれば、その人は犯人ではないと断定できる。
アドリブという言葉も日本語に定着している。ad libitumというラテン語の短縮形で、「任意に」とか「自由に」という原義である。たとえば音楽家が楽譜にとらわれずに即興で演奏するような行為をアドリブと呼んでいる。最近はa cappella(アカペラ)という言葉もよく耳にするようになった。cappellaはキリスト教の礼拝堂を指す。キリスト教の礼拝堂では楽器の演奏が禁じられ、人間の声だけで合唱した。そこから楽器の伴奏無しの合唱を「アカペラ」と呼ぶ。アリバイ、アドリブ、アカペラなど、ラテン語由来の言葉が日本語化している。
医学部の講義でin vivoとin vitroという言葉を習った。in vivoは「人体内」、in vitroは「ガラスの中」、つまり「試験管の中」という意味のラテン語である。実験室では成功したが、まだ臨床応用はできない、という話題の講義で、in vivoとin vitroを対比して使っていた。
私どもが日頃口にする医学用語の大半はラテン語である。musculus quadriceps femoris, luxatio coxae congenitae, locus minoris resistentiaeなどは和訳なしでも反射的に理解できる。ただし、ラテン語とは言っても、日本語の文脈の中にラテン語の専門用語を散発的に混ぜて使っているだけだから、外国語としての系統的な知識は、他の医師はどうか知らないが、私は皆無である。
influenza(インフルエンザ)のinは「中」、fluは「流れる」を意味するラテン語で、「中に流れ込む」という概念である。感染や微生物という知識のなかった古代は、大勢の人が同時に罹患する流行病は、他の天体が発する妖気のようなものが人体内に流れ込んで発症すると考えられていた。古代ヨーロッパには、人間の運命は天体に支配されているという信仰があった。たとえば、ラテン語の「月」を意味するluna(ルナ)に由来するlunatic(ルナティック)という英語は「狂気」と訳されており、月光を浴びると発狂するという迷信に基づいている。
horoscope(ホロスコープ)という英語は「占星術」と訳されている。ある人の誕生日がどの星座に属しているかで、その人の運命が決まるという信仰である。12の星座が割り振られており、たとえば乙女座のVIRGO、獅子座のLEO、蠍座のSCORPIO、双子座のGEMINI、牡牛座のTAURUS、水瓶座のAQUARIUS、魚座のPISCES、蟹座のCANCERなど、星座名をすべてラテン語で表記している。蟹座はなぜか英語の癌と同じCANCERという綴りである。獅子や牡牛や魚などの略画を添えた「今週の運勢」という星占いの記事が週刊誌によく載っている。
ラテン語の文章を英文と比較しながら解説した英文学者の著作を読んだことがある。その中からいくつか紹介してみたい。
alea iacta est.
「骰は投げられた」
ローマ帝国のジュリアス・シーザーが、国の禁を犯し、軍隊を率いてルビコン河を渡る際に発した言葉だそうである。するか、しないかと迷った挙げ句、思い切って実行したという心境である。同じ内容のthe die is cast. という英語の格言を高校時代に教わった。「死ぬ」と同じ綴りのdieがサイコロという意味で、複数形のdice(ダイス)は半ば日本語化している。
veni, vidi, vici.
「我来たり、我見たり、我勝てり」
やはりジュリアス・シーザーが戦場からローマの元老院に送った手紙と言われている。動詞の過去形が三語並んでいるだけである。
citius, altius, fortius.
「より速く、より高く、より強く」
近代オリンピックの標語である。形容詞の比較級が三語並んでいる。
tempus fugit cito pede.
「時間は速い足で逃げていく」
「光陰矢のごとし」のラテン語版である。
vox populi vox Dei.
「民の声は神の声」
朝日新聞のコラム「天声人語」はこのラテン語の漢文調の和訳である。
ex nihilo nihil.
「無から有は生じない」
nihil(ニヒル)は何もないという意味のラテン語で、半ば日本語化している。ニヒリズムは虚無主義と訳されている。
homo homini lupus.
「人間は人間にとって狼である」
「人を見たら泥棒と思え」に相当する解説が添えてある。
cautor captus est.
「用心している者は騙される」
絶対に騙されないぞと身構えている者は、「こんなに用心しているのだから」という安心感を抱いて油断するためにかえって騙されやすい……という逆説的な論理である。
quem di diligunt adulescens moritur.
「神に愛された人は若くして死ぬ」
有能な若者が死ぬと「神に愛されて天国に召された」と表現する。天国からお迎えが来ず、いつまでも生きている無能な老人を揶揄する喜劇の台詞に由来するそうである。
qui beneficium dedit taceat, narret qui accepit.
「恩恵を施した者は黙れ。恩恵を受けた者は喋れ」
恩恵を施した者が自慢や吹聴をしても、逆に恩恵を受けた者が感謝の意を表さなくても、対人関係は損なわれる。
spero dum spiro.
「呼吸している間は希望を抱く」
「呼吸している間」とは、生きている限りという意味である。希望のspero(スペロ)と、呼吸のspiro(スピロ)が一字違いで韻を踏んでいる。
mens sana in corpore sano.
「健全な精神は健全な肉体に宿る」
原文は、「神様、どうぞ私に健全な精神と健全な肉体をお恵み下さい」という願望形で、「宿る」という言葉は登場しない。日本人の英文学者が原文の願望形を勝手に断定形に訳した。「不健全な精神は不健全な肉体に宿る」とも解釈できるから、「病人の精神は不健全なのか」と文句を言いたくなる。がんの末期でも、並みの人以上に強い精神力の持ち主もいる。願望と断定とでは大違いである。日本では「宿る」という誤訳が大手を振って罷り通っている。
ars longa, vita brevis.
「芸術は長し、人生は短し」
「医学は難しいから生涯勉強し続けても学び尽くせない」と、古代ギリシャの医聖・ヒポクラテスが医学生に向かってお説教をしたのがこの言葉の起源と言われている。英語のartに相当するラテン語のarsは「長い修練を積んで身に付けた技能」という原義だから、医学の勉強もアートの部類に属するが、日本人はアートを何故か芸術と訳したがる。
「医学の修得には長い年月を要する」というヒポクラテスのお説教を「芸術は長し」と和訳すると、ヒポクラテスの意図する真意がまったく伝わらず、意味不明な日本語になってしまう。お粗末な英語の知識に過ぎないが、やはり不適切な誤訳が流布していると私は感じている。