「先生は代診者の報告をきいて診療が不十分だったと思えば、みずからその患家へ駕籠を走らせ、診療に当たられる。夜中に容態が急変すればただちに出向き、盆正月でも殆ど休まない。患者の容態に急変があれば再度往診に出かけられ、時には徹夜で看侍なさることもある」
「ご自宅で定時に食事を摂ることはめったになく、胃弱なのに夜更けて飲食されることもある」
「以前から胃酸過多症がありシュール(Zuur,胸焼け)に悩まされておられた」
「そういえば今年〔弘化4(1847)年〕の正月頃から、先生はしばしば酸敗液を嘔吐されるようになった。酒は多少たしなまれるが、それより餅や甘い菓子に目がなく、酒を飲んだあとも盛んに好物の大福に手をだされる。げっぷがでると塩湯をたっぷりのんで嘔吐をうながし上手に吐く。嘔吐がおさまりシュールがなくなると気分が爽快になり、また餅や菓子をさかんに食べて談論をはじめられる」
弘化4年4月上旬、胃の不快感があまりに強いので、信道は珍しく50日ほど休んだ。
5月下旬にやっと外出できるようになったが、どうもすっきりしない。
8月には胃の症状がひどくなってきた。恩師の宇田川玄真は熱海の湯治場「一碧楼」を愛用していた。嗣子の榕庵も生前、湯治場めぐりをして泉質の化学分析をするほど温泉愛好家だった。これに倣い、信道も門人2人を連れて熱海の「一碧楼」にでかけた。そこに40日間滞在して酒や甘い物を絶ち、療養第一に過ごしたのだが、胃の調子は思わしくない。
「湯治も胃病にさして効能はみられず」とあきらめ、江の島と鎌倉をめぐって9月末に江戸へ帰った。
その後も症状は依然としてつづき、翌嘉永元(1848)年8月16日には腹部に強い痛みを覚えた。やむなく病臥したが、異臭のある吐物と喀痰がおさまらない。
伊東玄朴、戸塚静海、竹内玄同、大槻俊斎、林 洞海といった江戸の錚々たる蘭方医が信道の病室に集まり治療に当たったが、病状は悪化の一途をたどった。
「おそらく胃癌を患い、これが因になって肺癌を発症したのでは……」。玄朴がそう断ずると、他の蘭方医たちもうなずいた。
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