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多紀元堅(3)[連載小説「群星光芒」195]

No.4782 (2015年12月19日発行) P.70

篠田達明

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-01-31

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  • ――あん時は危うかった。

    伊東玄朴はときどき人生の節目で蒙った危機を思い出しては冷や汗をかくことがある。

    その晩も独酌で酒を飲みながらシーボルト事件を思い浮かべて汗を拭った。

    玄朴がシーボルトの門下生となったのは20代半ばだった。肥前国(佐賀県)神埼郡の貧しい農家に生まれた玄朴は初名を勘造といった。

    父は村の宮司を兼ねていたが、借財を背負ったまま他界したため長男の勘造は借金返済の重荷を背負わされた。

    村医者を開業して20歳過ぎまで働き、ようやく負債を返した。

    その後は佐賀藩医島本龍嘯の世話で通詞猪俣伝次右衛門の学僕となった。

    文政6(1823)年、シーボルトが出島の蘭館医に就任すると伝次右衛門はシーボルトの通詞を務めた。勘造も従者として蘭館に出入りしている間に鳴滝塾で学ぶことを許された。シーボルトが江戸参府した際は伝次右衛門夫妻と息子の源三郎、娘のお照に同行して江戸へ向かった。

    しかし伝次右衛門は旅先の沼津で急病に倒れ、「勘造、家族を頼んだぞ……」と言い遺して没した。

    江戸の佐賀藩邸に着いた勘造は慌ただしく源三郎の跡目相続の手続きを済ませ、そのあと長崎屋でシーボルトの来客の応対を手伝った。

    長崎屋では佐賀出身で昌平黌の儒者古賀侗庵に出合い、

    「おぬしの蘭語はたいしたものだ」

    と褒められて面目を施した。

    シーボルトが江戸を発ったあと、源三郎一家は浅草福富町の天文台役宅に残り、勘造も役宅に門人を集めて蘭語を教えた。

    翌年5月、勘造は法事のため郷里に帰省したのだが、その際、源三郎からシーボルト宛の封書を預かった。これを出島に届けてから実家に往き法事を済ませた。

    残り1,465文字あります

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