――わが医学館は膨大な『医心方』の復刻によって西洋の最新治方に劣らぬ新工夫を探索している最中だ。わしの目が黒いうちは成就できぬかもしれぬが、あとは息子どもが引き継いでくれよう。
そう思案した多紀元堅は、ほどなく漢方医の浅田宗伯を向島に呼び寄せた。
浅田宗伯は信州栗林の出身で元堅より20歳年下だが見所があった。
初対面のとき宗伯は抱負を語った。
「漢界の現状は学と術の二途に分かれ、互いに疎にして病を託すに足りませぬ。手前はおこがましくも病理治方合一之論を立つべく鋭意努めております」
これをきいて、彼こそ将来の漢方界を背負う逸材なりと意を強くした。
その宗伯が向島の病室に現れると、
「よくきてくれた」
と元堅は病床から起きあがって迎え入れた。
「じつはわが身に重大な異変がおきている……」
挨拶もそこそこに元堅は宗伯に低い声で告げた。
「しばらく前から右の小腹に異様な小塊を触れるが、このところ場所を移して左側にある。塊が場所を移動するのは大患を発する徴であろう」
宗伯は上向きの大鼻を傾けて訊ねた。
「なんぞ手前にできることがありましょうや?」
「おそらくこれはがん腫だ。不治の病ゆえ療治など要らぬ」
死が間近であると悟った元堅は、一切の医療を拒むことにしたのだ。
「しかし余人に知られては動揺が及ぼう。おぬしだけには話しておきたい」
元堅はしわがれた声でいった。
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