「奥医師として身分にふさわしい供廻りを10人ほど自腹で雇わねばならない」
と伊東玄朴はいった。万事倹しく暮らしてきた緒方洪庵にとってこれは過大な負担だった。
「上様と御台様の拝診は失礼に当たらぬよう、着衣から身の回りの諸道具まですべて新調なさるように」
大奥の上臈(上級女官)からもそう念押しされた。式服や諸道具は『適塾』で用いた品でよいとの腹積もりでいたが、これも予想外の出費となった。
「城中では武家言葉にて応対願いたい」と玄朴から耳打ちされたときは「武家流儀にがんじがらめにされてほんまに煩わしい限りや」と胸の内でぼやきが出た。
本音でのびやかに過ごした大坂の町が懐かしく、一首詠まずにはいられない。
空蝉の 世は好し悪しも 見ながらに
浪華の春の 夢にぞありける
就任儀式や挨拶回りが終った早々から、奥医師としてのめまぐるしい仕事がはじまった。
大奥で初めて和宮の脈をとったとき、周囲を中﨟とそのお付き女中、それに和宮の侍女たちが仰々しく取り巻いたのには面食らった。
間近に接した和宮は色白の気品ある面立ちで、おでこの細長い顔に幾分しゃくれた高い鼻筋と貴人に特有の反っ歯が目についた。身長は4尺8寸(約146cm)くらい。手足はほっそりして弱々しく、幼少より爪先を内側にむけて歩くよう躾けられたらしく下肢は蘭書でいう軽いO脚だった。甘い物を好まれるのか脚気気味でもあった。
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