2011年3月11日、東日本大震災が発生した。翌日、東京電力福島第一原子力発電所(以下、福島第一原発)1号機の水素爆発が起こり、環境中に放射性物質が拡散したと報道された。その直後より長崎から医療支援で福島に入り、以後現在まで福島で放射線教育に携わっている一看護職(看護師・保健師など)の視点から放射線教育について考える。
当時、私は長崎大学病院の看護師として病棟勤務の傍ら、長崎大学大学院で放射線看護や放射線科学、放射線リスクについて学んでいた。震災3日目の3月13日、福島県内の避難住民の安全管理と汚染検査を目的に、医師、診療放射線技師に看護師を含めた5名(内1名が筆者)が長崎大学緊急被ばく医療チームとして福島に向かうことになった(図1)。
14日に発生した3号機の水素爆発後、原発による大規模放射線災害に備えるため、福島県立医科大学(以下、福島医大)で汚染・被ばく傷病者受け入れの体制構築を行うこととなった。15日に福島医大の視察に行くと、現場の先生から、「医療スタッフも被災者である。震災後より医療スタッフ不足の問題もあり、休日の勤務体制で業務している。スタッフの疲労は限界に達し、メンタルも落ち込んでいる」という訴えがあり、現地医療者から多くの協力体制が望める状況ではなかった。そんな中で16日に福島第一原発にて傷病者が発生し、福島医大への搬送要請が入った。待機していた医療チームの中から広島大学の医師と長崎大学の看護師である私、奇しくも、被爆地出身の医療者が向かうことになった(図2)。
連日、煙を上げている不安定な原発や空間の放射線量、傷病者の状態などの情報がない中での現場出動であり、大きな恐怖感があった。しかしそれ以上に強い使命感の方が大きかったのだと今でこそ思う。当時、私が持ち合わせていた被ばく医療の知識と技術は、「放射線防護の3原則」「線量計の操作と数値の意味の把握」「二次被ばくの経路」だけであった。現場のリスクを自ら評価し、自分自身へのリスクを低減する対策を行うことは重要であり、リスクを測り回避するためにはこの3つの知識だけで十分であった。
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