夏目漱石が1905〜06(明治38〜39)年にかけて発表した『吾輩は猫である』(以下、『猫』)には、漱石の分身的な主人公である中学の英語教師・苦沙弥が、近隣住民や隣接する中学校の生徒と対立する場面があるが、そこには、苦沙弥側の情報が知らぬ間に相手側に漏れるとか、相手側が集団的・組織的に迫害を加えてくるといった、被害妄想を思わせる描写がみられる。
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たとえば、『猫』の第2話では、苦沙弥の旧門下生の寒月が、吾妻橋で自分の名前を呼ぶ女の声に誘われて橋から飛び降りたものの、気づいたら橋の真中に飛び降りていたという体験が語られる。ところが、次の第3話では、この苦沙弥の仲間内だけで語られた話がいつの間にか実業家の金田夫人に漏れていたために不思議に思って、「金田の奥さん、どうしてこの秘密を御探知になったんです」と尋ねると、金田夫人は「寒月さんが、ここへ来る度に、どんな話しをするかと思って車屋の神さんを頼んで一々知らせて貰うんです」「車屋ばかりじゃありません。新道の二絃琴の師匠からも大分いろいろな事を聞いています」と答えた。
この話を聞いた猫は、「先方では博士の奥さんやら、車屋の神さんやら、二絃琴の天璋院まで買収して知らぬ間に、前歯の欠けたのさえ探偵している」「寒月の事は何でも聞かなければならないが、自分の方の事は一切寒月へ知らしてはならないという方針と見える」と憤慨し、その不当性・不公平性を非難する。金田家では、苦沙弥を「ちっと懲らしめのためにいじめてやる」という意図のもとに、近隣住民に苦沙弥の動向を監視させ、その情報を逐一報告させていたのである。
すなわち、『猫』には、苦沙弥に対して実業家の金田を黒幕とする集団的な監視や迫害がなされるという被害妄想を思わせる設定が認められるのだが、これと似た状況は苦沙弥と隣の中学校の生徒との関係にもうかがえる。
この中学の生徒たちは、ボールを探すという名目で苦沙弥の家の敷地に入っては大声を出し、野球をするときにも、「これでも利かねえか」「恐れ入らねえか」「降参か」といった吶喊の声をあげて、苦沙弥の神経を搔き乱している。しかも猫は、こうした中学生の振る舞いについて、「かくのごとく騒ぎ立てるのは必竟ずるに主人に戦争を挑む策略」など、苦沙弥を苛立たせるために生徒たちが意図的な嫌がらせをしているという被害妄想的な解釈をしているのである。
さらに言えば、苦沙弥をからかう生徒たちの声には、「主人方の不利をいうと書斎からは敵の声だけ聞えて姿が見えない」「その中には主人をひやかすような事を聞こえよがしに述べる。しかもその声の出所を極めて不分明にする」など、いかにも幻聴を思わせる特徴が認められる。
実は、生徒たちの黒幕も、近隣住民同様、実業家の金田で、「いろいろ手を易え品を易えてやって見るんだがね。とうとうしまいに学校の生徒にやらした」と、金田の指示で生徒たちが組織的・集団的に嫌がらせをするという設定になっている。そしてその結果、苦沙弥は「朝から晩まで癪に障り続けだ」と怒るような精神状態に陥るのだから、ここに描かれている状況は、作中では現実の出来事とされているものの、幻聴や被害妄想のある患者に類似の状況であることがわかる。
特に興味深いのが、この近隣トラブルに対する苦沙弥の対応である。苦沙弥は、彼を訪ねてきた友人にも、「騒々しいの何のって」「僕は不愉快で、肝癪が起ってたまらん。どっちを向いても不平ばかりだ」などと訴えるのだが、ある晩つくづく考えるに、自分でも「少し変だと気が付いた」。苦沙弥は、「いくら中学校の隣に居を構えたって、かくのごとく年が年中肝癪を起しつづけはちと変だと気が付いた」のである。そして、「変であって見ればどうかしなければならん」と思った苦沙弥は、「医者の薬でも飲んで肝癪の源に賄賂でも使って慰撫するよりほかに道はない」と考えて、かかりつけの甘木医師に往診を依頼している。
すなわち、自らの精神状態を振り返った苦沙弥は、近隣住民や中学生の嫌がらせを自分の思い込みや考え過ぎとまでは思っていないにしても、最近の自分の癇癪や逆上ぶりが尋常でないことは実感して、医師に診てもらう気持ちになっているのである。それは、妄想を妄想とは認めない場合でも、自分の心理的な異常─この場合は癇癪や逆上─を自覚できれば受診の契機となりうることを示している。それは取りも直さず、妄想に対する病識がなくても、いつもの自分の精神状態とどこか違うという病感があれば受診につながることを示唆しているわけで、『猫』は、病識のない妄想患者でも病感によって受療行動が促されうることや、その場合の身近なかかりつけ医の重要性を示した作品と言うこともできる。
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なお、漱石が1913(大正2)年に発表した『行人』では、妻に嫉妬妄想を抱く大学教師の一郎が、やはり自分の妄想を妄想と認めるまでには至っていないものの、「二六時中不安に追いかけられている。情ない程落付けない」と、自分の不安・焦燥を自覚している。
すなわち、苦沙弥と一郎は、いずれも妄想的な状態にありながら、本人が自覚している感情は、苦沙弥の場合は癇癪や逆上であるのに対して、一郎は不安や焦燥という具合に、2人が抱く病感には微妙な違いがある。
これは、どう考えたらよいのだろうか?
1つ考えられるのは、苦沙弥の場合は、妄想の基底に躁的な気分変調があったために躁病的な症状である癇癪や逆上を自覚していたのに対して、一郎の場合は鬱的な気分変調があったために鬱病的な症状である不安や焦燥を自覚していたという可能性である。
実際、『猫』執筆時の漱石について、鏡子夫人は「その創作熱の旺んなことったらなかった」「傍で見ているとペンを執って原稿紙に向かえば、直ちに小説ができるといったぐあいに張り切っておりました」「書き損じなどというものは、まったくといっていいほどなかった」など、軽躁的な特徴に気づいているのに対して、『行人』執筆前後の漱石については、「晩年になりますと、書けなくなったのか(中略)、山のように書きそこねの原稿紙を出して」「書く量も晩年には1日に新聞1回分ときめていた」(以上、『漱石の思ひ出』)と、創作量の低下を語っている。また、『猫』には明るさやユーモアが目立つのに、『行人』では暗い作風になるなどの状況も考えると、苦沙弥の癇癪・逆上と一郎の不安・焦燥という病感の相違は、それぞれの執筆時における漱石の躁的もしくは鬱的な気分変調を反映したものではないかと考えられるのである。