パリオリンピックでも、多数の競技の日本人選手がけがや痛みを抱えながら戦ったことが美談のように伝えられています。それらは本来、個人情報であり、けがのない状態、あるいはけがの影響がない状態に選手のコンディションを整えて最高のパフォーマンスを発揮できる状態で大会にのぞめることが理想です。
代表選手たちは代表に選考されるために、日本選手権の勝利、記録競技では参加標準記録の突破、最近では、国際大会参加によるポイント、ワールドランキングの順位、などが必要となります。そのため、選手たちは多数の競技会に参加し、トレーニングで身体能力を高める、という日々を送ります。過負荷の原則に則り、より高い負荷を身体に加え、より高い能力をめざす過程で、疲労性(オーバーユース)の損傷の発生が不可避に近く、代表となって健診を受ける際に、身体のどこにも問題がない選手は少数です。また、代表決定後も試合参加や身体能力を維持・向上するトレーニングが続き、治療に専念できることはありません。
大会期間になってもけがが完治せず、痛みが残ったまま参戦することになると、チームドクターやトレーナー(メディカルスタッフ)は少しでも痛みの少ない状態で参戦できるように、様々な物理療法、内服薬、そして痛みを軽減する注射や、テーピング類をルールの範囲内で駆使することになります。当然、選手に使用できる薬剤はアンチドーピング規則で許されたものに限られ、タイミングによっては文書による申請承認が必要です。最近は、needle policy1)といって必要以上の薬剤注射をして競技参加させることを減らし、資格を有する医師が適切に判断した場合にのみ認め、文書での報告を行うことも求められています。
私は日本オリンピック協会や日本陸上競技連盟のメディカルスタッフとして国際大会に帯同し、選手の競技成績とけがなどの身体的問題との関係を調査したことがあります2)。陸上競技では、自己ベストに対して低い達成率であった選手では、身体的問題、特に代表決定後に生じたけがと、長期間にわたって保有していたオーバーユース症状が問題となっていたことが多く、注射をして参加しても思い通りの結果にならなかったことが多いと思い出しています。また、無理をして参加した結果、その後、長期に影響が残ってしまう危険もあります。大相撲春場所で足関節靱帯損傷に痛み止めを注射して千秋楽の土俵で勝って優勝した尊富士が翌場所以降、休場せざるをえなくなったことは教訓です。
昨今の選手たちは期待する結果を残せないとSNS上で誹謗中傷を受けたり、期待に応えられなかったという強い失望感に苛まれたりすることが少なくありません。メディカルスタッフは選手とコーチの希望を聞いて、彼らから強く要望があり、しかもその治療がその後の選手の身体に負の影響を残さない場合に限って、注射などの治療を選択します。しかし、それは美談ではなく、本当に追い詰められた崖っぷちの状態であり、安易に報道されるべきことではないように感じます。最も望ましいのは、けがや痛みのないベストコンディションで試合にのぞめるような健康管理であることは言うまでもありません。
【文献】
1)ITA Keeping Sport Real公式サイト:IOC Needle Policy & Rules for Paris 2024.
https://ita.sport/resource/ioc-needle-policy-rules-for-paris-2024/
2)鳥居 俊:陸上競技研究紀要. 2016;12:164-7.
鳥居 俊(早稲田大学スポーツ科学学術院教授)[パリオリンピック][オーバーユース損傷][注射]