父のせっかちは今に始まったことではないけれど、年を取るにつれ加速がついてきたようです。
弁当の到着が12時より少しでも遅れると、待ちきれずに朝食用のバナナを剝き、ビールのつまみである柿の種をポリポリと齧り出します。15分遅れで到着した弁当は箸をつけられることもなく、あわれ冷や飯として夕食まで居残りをさせられてしまうのです。
もう87年も生きてきたのですよ。仕事が忙しいわけでもない、予定があるわけでもない。だったら15分くらい待ってもよいのに、12時半と決めている昼寝の時間に食い込むのが気に入らないのだとか。
外食をしても目の前に置かれた順にせかせか食べるから、メインのおかずが出てくる頃には既に満腹、ああ、もったいない。されど「せっかちは損をする。もっと悠長に生きよう」とはなりません。せっかちに加速はあっても減速は難しいようです。
せっかちは心の持ちようだけれど、人間の営みもせかせかに向かって一直線に進んでいるようです。いささか乱暴な表現をすれば、人間は「時間を節約するために時間を費やしている」と言えなくもないわけで、効率(燃費がいい、時間が短縮できる)を上げるためには労をいとわぬようです。
効率を上げるのに必要なのは、まず道具。素手よりも石器、獲物を捕らえるには槍や斧。もっと遠くに素早く放るなら、弓矢より銃器。竈で煮炊きをするよりも、ガスや炊飯器、電子レンジを駆使したほうが楽ちんで、洗濯機に掃除機、冷蔵庫と、電器店はさながら時短と便利さを競うショールームのよう。
ここ100年で最も短縮されたのは、移動に要する時間と労力でしょう。徒歩や馬での移動が車や飛行機に、階段はエレベーターにエスカレーター、自転車も電動でアシスト。飛脚で運んだ手紙がメールで瞬時にと変貌著しいけれど、このくらいで満足する人類ではありません。より早く、快適に便利に暮らすための道具の発明に日夜狂奔しているのです。
おかしいですね。寿命は延びたのに、移動時間は短縮したのに、なぜに人は生き急ぐ?
その原因のひとつに時計の普及が挙げられるでしょう。目覚まし時計で起こされて、テレビで時間を確認し、電車に乗り遅れないように家を出る。学校に着けばベルが鳴り、授業はかっちり決められた枠で進行し、昼休みを有効に使いたかったら、急いで弁当を食べ終えるしかない。時間を使いこなすどころか、時間に追われて暮らしているのです。
明治以前のように太陽の運行で時を知り、季節によって一刻の長さが違っていたような時代であれば、今ほど刻限にうるさくなかったことでしょう。急ぎたくても徒歩でのスピードには限りがあり、走ったところで時速20kmが精いっぱい。情報伝達に使えるのは狼煙や手紙しかなく、どんなに心が急いてもひたすら待つしかありません。
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