株式会社日本医事新報社 株式会社日本医事新報社

CLOSE

庄内の女たち(6)【地霊の生みし人々(27)】[エッセイ]

No.4809 (2016年06月25日発行) P.72

黒羽根洋司

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-01-24

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
    • 1
    • 2
  • next
  • 芭蕉、一茶の俳句の世界はもとより、啄木、中也の詩歌でも、一流の証しは名前で呼ばれることである。さらに漱石、鷗外、露伴とくれば、彼らこそ日本近代文学の古典であり、誰もが認める文豪である。これらの大御所たちとは別に、大衆小説の書き手を、読者は親しみを込めて名前を短縮して呼んできた。時代小説で一時代を築いたその人、柴田錬三郎も読者から「シバレン」の名で愛された。彼は小説家としてまだ世に出る前に齋藤家に婿養子となったが、ペンネームだけは柴田のままとした。もしそのとき、齋藤錬三郎という本姓に変えていればサイレンとなるところだった、と後日彼は述懐している。柴田錬三郎こと、シバレンこそは従来の剣豪、講談ものに都会的な香りを与え、知的な読み物にした先駆者である。そして彼の妻もまた、回天の志士の魁ともいうべく清河八郎を祖に持つ、庄内ゆかりの女であった。

    シバレン誕生まで

    柴田錬三郎は1917(大正6)年、岡山県邑久郡鶴山村(現・備前市)に生まれた。三方を山に囲まれた小さな村で、当時は10里離れた岡山市に1日2回しかバスが出なかったという。

    生家は村の中地主で、父知太は日本画家、錬三郎はその名のとおり3男であった。3歳で父を喪ったが、残された膨大な漢籍は後にペンで身を立てるための肥やしとなった。幼少より書を開くすべを覚え、ろくに読めなかったが、漢文の格調に惹かれて育った。この漢籍に親しみ、語彙を豊富にさせていたほかに、幼くして文士になることを運命づけられていたかのような資質を彼は備えていた。1つは途方もない、村始まって以来の腕白小僧であったことである。武勇伝は数知れず、子分を引き連れての悪行は、彼の豊かな探究精神の表れであった。もう1つは嘘をつく名人であったことだ。教師の説教癖にうんざりした錬三郎は、二宮金次郎の美談にもっともらしい注釈を加えて相手を絶句させた。この漢籍、悪戯、嘘の3つの特技は、少年にして既にストーリーテラーになるのを約束させたようなものである。

    1935(昭和10)年に慶應義塾大学文学部に入学した柴田は、「三田文學」を、創作し発表する場に選んだ。そもそも上京のきっかけが、親の薦めに従って医学部に進学するためであり、1年前には医学部予科に在籍していたというから面白い。安定した医師という職業ではなく、おのれの才能だけしか頼りにならない至難の道を柴田は選んだのである。慶應の学生である柴田は、酒田の女学校を出て世田谷で本屋を営む齋藤栄子に出合い、恋におちいる。栄子は8歳年上、しかも清河八郎の妹で、齋藤家の家督を相続した辰の孫である。やがて、1940(昭和15)年に2人は結婚し、錬三郎は齋藤家の婿養子となる。23歳の新郎は、志半ばの学生であった。

    残り1,490文字あります

    会員登録頂くことで利用範囲が広がります。 » 会員登録する

    • 1
    • 2
  • next
  • 関連記事・論文

    もっと見る

    関連書籍

    関連求人情報

    もっと見る

    関連物件情報

    もっと見る

    page top