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豊臣秀吉の朝鮮出兵は歴史学的にどう解釈されている?【国内戦に備えて武士団を抱えすぎたことや,海外で勝利することで大名の不満を解消するために行われた】

No.4789 (2016年02月06日発行) P.69

仲尾 宏 (在日コリアン・マイノリティー人権研究センター 理事長)

登録日: 2016-02-06

最終更新日: 2016-10-25

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【Q】

豊臣秀吉の朝鮮出兵の意図をご教示下さい。当時の日本では銀が枯渇していたため,それまで輸入代金に充てていた金銀が使えなくなり,朝鮮攻略に乗り出したという話を聞きました。また,これは歴史学では通説となっているのでしょうか。このほかの推論・説があるのかについてもお聞きしたいと思います。 (京都府 I)

【A】

日本国内を統一した豊臣秀吉が2度にわたって10数万の軍勢を朝鮮国に攻め込ませ,おびただしい殺戮と国土の破綻をもたらし,また出兵した大名とその配下の武士たちにも大きな犠牲をもたらしたことはよく知られています。この秀吉の大規模な海外出兵の理由として,昔から様々な理由づけが語られてきました。しかし,そのうちあるものは,論者や作家の想像から生まれた言説であることも少なくありません。
秀吉が国威を輝かす功名心にかられてこの戦争をはじめたのだとか,東アジアの覇者をめざした第一歩であるとかいうものです。これらの「物語」は秀吉の政治の実際に触れたものではありません。歴史はあくまで確実な「史実」にもとづいて語られるべきもので,あれこれの「解釈」をもとにして語られてはなりません。
現在,この朝鮮出兵について,関連学会では,第一に戦国時代末期の大規模な国内戦で勝利を得るために大量の武士団を抱えすぎ,その領国での知行加増を求める配下の大名たちの不満を秀吉が海外での戦争によって解消しようとして始めたことである,ということがほぼ定説となっています。
その1つの例として,秀吉子飼いの武将・加藤光泰が秀吉に対して,糧米不足分を秀吉直轄地からも得ようとして秀吉から譴責された,という1585年の書状が挙げられています。また秀吉はこの後,全国に大規模な検地を行い,実際の石高を産出させ,「人掃令」によって農民・庶民の人口調査を行って兵役に動員する資料としました。さらに,刀狩りによって兵農分離を徹底しつつ,大量の金属器を回収しましたが,その多くが戦闘用の武器に再生されました。
これらの事実から浮かび上がってくることは,秀吉は国内戦の延長として朝鮮から中国にまでその支配権を及ぼそうとしていたことです。そこには,東アジアでそれぞれの民族が国家を形成し,また交易を行っていたことなどは眼中にありませんでした。
だから緒戦こそ勝利を得たものの,朝鮮と明の連合軍,そして朝鮮の農民などが中心となった義兵によってその野望はあえなくくじかれたのです。この戦争こそ,誰も利をうることはできず,無謀,無体,無道な戦争であった,と言うべきでしょう。

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