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庄内の女たち(8)【地霊の生みし人々(29)】[エッセイ]

No.4829 (2016年11月12日発行) P.68

黒羽根洋司

登録日: 2016-11-13

最終更新日: 2016-11-08

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  • 島田清次郎、柴田錬三郎と続いた評伝は、順不同となるが、次は風太郎である。本名山田誠也が風太郎となるのは、中学時代に3人の友人たちと互いを呼び合うのに用いた雷、雨、雲、風という符丁に由来する。受験雑誌に投稿したときに初めて使った風太郎が、ペンネームとなった。

    ところで、山形県の川西町に生まれた作家の井上ひさしは、幼い頃に「県内に3人の偉い人が疎開している」とよく聞かされたという。3人とは作家の横光利一、経済学者の大熊信行、落語家の柳家金語楼である。短い疎開ではあったが、そこで生涯の伴侶を見つけるという劇的な出会いを果たしたのが、当時医学生、後に戦後日本を代表する娯楽小説家の1人となる山田風太郎である。

    誠也から風太郎へ

    山田誠也は1922(大正11)年1月4日、兵庫県の北部に位置し、昔は但馬の国、現在は養父市となっている関宮村に生まれた。生家は先祖代々庄屋と医者を兼ね、祖父の熊太郎、父の太郎はそれぞれ医者であった。

    父が往診先で倒れて死亡したのが、誠也5歳のとき。若くして寡婦となった母は、やがて父の弟で同じ医師となった伯父と再婚し、山田医院を再開する。その母も14歳という多感な時期に亡くなり、義父であった伯父は別の女性と再び一緒になる。誠也にとって母の死は相当こたえたようである。「この年齢から母がいなくなることは、魂の酸欠状態をもたらす」と語る誠也は、それから回復するのに10年を要したという。

    旧制中学時代では不良化するにつれて、成績はみるみる低下し、停学を2回も受ける破目となる。その最後の年、小遣いに困った誠也は『受験旬報』(現在の旺文社の「螢雪時代」)に懸賞小説「石の下」を応募して入選を果たす。得た5万円は当時でも相当な額であった。以後8回入選し、しまいには選者から「同じ人が何度も当選するのは感心したことではないが――」と評される始末であった。弱冠18歳、誠也の文学的な才能は既に並々ならぬものがある。

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