秦の始皇帝が水銀中毒に陥っていたという逸話は有名である。
水銀が含まれた不老不死の妙薬を常用していたからだと言われているが、恐らくそれは辰砂と呼ばれる硫化水銀を主成分とする薬剤の含まれたものだったのだろう。実際に処方されることはないようだが、現在でも、朱砂安神丸1)など、辰砂(朱砂)が使われた漢方薬処方が存在する。真相はともかくとして、途方もない権力を手に入れた支配者が不老不死を求めて彷徨う姿は、想像するだけでも哀れである。独裁者の孤独と限りない死への恐怖には、計り知れないものがあるのだろう。
人は一人では生きていけない。
そんな当たり前のことを理解できないとは思えないが、なかなか人は権力を求めることを止めない。いつまで経っても無意味な争いが止まないのが人間社会の現実である。勝ち組も負け組も、結局は不幸になるのだが……。
徐福に簡単に騙されてしまったことも、巨大な兵馬俑の構築も、信頼できる人間を誰一人として持てなかった始皇帝が、決して幸せではなかったことを裏付けている。水銀中毒がさらに始皇帝をしてエキセントリックな存在とさせていたとすれば、現世に蔓延する覚醒剤依存と同様、始皇帝も負のスパイラルに落ち込んでしまった一人ということになる。権力同様に、富と名声とを手に入れた人間が孤独の極致で嵌る罠は、何一つ変わっていないのかもしれない。
古来、水銀による慢性脳疾患はよく知られていた。Erethismと呼ばれる脳障害である。行動異常を主体とすることから、「気が狂ったようになること」が特徴とされた。フェルトを作る工程で水銀を使っていたイギリスの帽子職人によく見られたことから、「帽子屋のように狂っている(mad as a hatter)」という表現が生まれたとされる。「不思議の国のアリス」の帽子屋(The Hatter)も、本来のモデルは家具屋のTheophilus Carterであったとされるが、エキセントリックな性格が水銀中毒の帽子職人のようであるとの設定から生まれたキャラクターだったらしい。さすがに現在は、職場で気楽に水銀を使う環境はないだろうが、放射線同様、危険度を理解していなかった時代にはかなり怖いことが平然と実践されていたようである。
妙薬としての水銀摂取は錬金術と深い関係がある。賢者の石(Philosopher’s Stone)と呼ばれる概念である。「ハリー・ポッター」シリーズの第一作のタイトル2)に登場したように、英国では比較的良く知られた言葉であるが、誰もが知っていたわけではない。判り難いと判断したアメリカの出版社は“Philosopher’s Stone”を“Sorcerer’s Stone”と変更した。Sorcererとは魔法使いのことであるから、「賢者の石」ではなく「魔法使いの石」とすることにしたのである。どちらでも意味はそれほど違わないのだが、日本人にとっても「魔法使いの石」のほうが判りやすいかもしれない。
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